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2019年9月

2019年9月29日 (日)

薬師池公園の名勝正式名である福王寺旧園地という謎と国指定重要文化財や都指定有形文化財などの旧家建築物

東京都指定名勝となっている町田市の薬師池公園ですが、正式には「福王寺旧園地」という名称で指定されています。

薬師池という位ですから薬師堂があるようなので行ってみます。

ただし、地図や案内板には薬師堂の表示はありますが、福王寺という表示はないので、その辺も確認してみます。

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↑公園内の階段の登り口の所に「薬師堂参道」と書かれています。

階段を登っていくと、まずは巨大な御神木がまず目をひきます。

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現在は「野津田薬師堂」と言われているこの薬師堂は、奈良時代である天平年間(729〜749)行基の開基と伝えられています。

しかし、鎌倉時代末期の新田義貞の鎌倉攻めの時に焼失してしまったようです。

200年以上後の元亀4年(1576)にこの地に福王寺として再興されました。

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↑現在の薬師堂は明治16年(1883)に再建されたものです。

前回見てきたように農業用水池として薬師池が作られた頃は、福王寺溜井と言われていたそうです。

そのため、正式名は福王寺旧園地です。

この薬師堂は華厳院というここより1キロメートルほど北にある寺院により管理されており、どうやら行基開基といわれているのはその華厳院のようです。

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福王寺溜井は寛永年間(1624~43)に作られたと前回書いたのは、公園内の東京都教育委員会による名勝の案内板によるものでした。

しかし、園内の別の案内板をには、戦国時代の天正5年(1577)滝山城主としてこの辺りを支配していた北条氏照の許可によって、周辺農民により十数年かけて農業用水池として開拓されたとの表記もありました。

どちらが正しいのでしょうか。

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↑薬師堂からさらに階段を登っていくと、視界が開け、この薬師池公園を東から南を通り西へと取り囲んでいる尾根道にでます。

ここは標高100メートルを超えていますから、池の辺りとの高低差は35メートルもあります。

この薬師池公園は日本の歴史公園100選にも選ばれていますが、国指定重要文化財や都指定有形文化財の建物があるのでそちらも見てみます。

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2019年9月22日 (日)

新東京百景で東京都指定名勝でもあり日本の歴史公園100選にもなっている町田市の薬師池公園

薬師池公園は1982年には「新東京百景」に選ばれ、さらに1998年には「東京都指定名勝」に指定されました。

その上2007年には「日本の歴史公園100選」に選定されたという町田市を代表する公園です。

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↑都道18号府中町田線(鎌倉街道)がこのすぐ左側を通っているのですが、ここは薬師池という池があるように周囲より低い標高66メートルほどになるため静かです。

道路が10メートルほど高い位置にあるため、幹線道路沿いであることを感じさせない落ち着いた雰囲気です。

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↑池の南から北を見ると、東も西も土地が高くなっていることが分かります。

しかし、ここは自然の池ではなく、江戸時代に人工的に造られたものだそうです。

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↑二連の太鼓橋が架かっています。

寛永年間(1624〜43)に、ここを農業用水池にするために耕地を潰して溜井にしました。

長さ70間(126メートル)、横28間(50.4メートル)もの大きさで、十数年間かけて築いたそうです。

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↑逆に北から南を見ていますが、東と南と西を尾根に囲まれたような地形なので、自然にも水は溜まりそうなところです。

案内板をみると、「大滝」があるというので見に行きました。

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↑水の音がするので近づいてみると、「えっこれが大滝?」と思うような小さい滝でした。

位置としては池の西側の斜面の途中になります。

水量は豊富なようで、水は高いところから低いところへ勢いよく流れていきますが、この薬師池にも苦労の歴史があるそうです。

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2019年9月15日 (日)

石田堤が破堤したという地点と鴻巣市の史跡公園にある堤の断面

石田三成による忍城水攻めの際に築かれたという石田堤の行田市の現存しているところを見てきました。

新忍川の堀切橋が鴻巣市(合併前の吹上町)との境界ですが、その堀切橋は土木学会選奨土木遺産となっています。

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↑北の行田市方向を振り返って見ていますが、親柱頂部に尖頭半球が施されています。

この高欄には三角形の空間があるデザインとなっています。

昭和8年(1933)に竣工しましたが、屋外アート風の橋であることから土木遺産に選奨されたそうです。

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↑南の鴻巣市側を見てみると、幾何学模様が描かれているのもわかります。

高欄の影に三角形があるのも面白いです。

忍城水攻めの時は、この堀切橋のところで石田堤が破堤して、石田三成率いる豊臣軍に多数の犠牲者が出たということです。

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↑堀切橋から南の約300メートルも石田堤が保存されており、鴻巣市指定史跡として石田堤史跡公園となっています。

東屋や説明板などが整備されていますが、堤が途中でバッサリと切断されています。

ここには上越新幹線が通っているのです。

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その高架橋の下も広場となっています。

様々な説明板がありますが、櫓のシンボルモニュメント下では石田堤の音声案内を聞くことが出来ます。

感知器があって、人が下に立つと音声が流れてきます。

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音声は2パターンあるようですが、東屋のところにあった説明板によると、上を新幹線が通過するときにその別バージョンが聞くことができると書かれていました。

聞いてみると、解説だけでなくドラマ仕立てとなっており、石田三成役は大和田伸也さんです。

このブログを見ている方は分かりづらいでしょうから、国土交通省HPにある石田堤のイメージ地図です。

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2019年9月 8日 (日)

石田三成による忍城水攻め時に陣のあったところからの眺めとその時に築かれた石田堤

戦国時代末期、豊臣秀吉は関東地方に勢力を持つ小田原北条氏と戦うことで関東を平定して、天下統一することを目指していました。

小田原城の支城であり、行田市にある成田氏の忍城への攻撃を石田三成が命じられました。

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↑石田三成は、同じく行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳に本陣を構え、忍城付近を眺め、その地形から水攻めをすることを決めたと言われていました。

しかし、実際には石田三成が考えたというよりも、豊臣秀吉の強い意向により水攻めは行われたようです。

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↑丸墓山古墳は高さ19メートルありますから、確かに忍城周辺の地形はよく見ることが出来ます。

忍城を取り囲むように堤を築いて、利根川、荒川の水を引き込み水攻めをしようとしたものでした。

天正18年(1590)に石田三成らは城を包囲し水攻めをすることとし、そのために築いた堤は後に「石田堤」と言われています。

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↑丸墓山古墳古墳から南へ向かう道も石田堤の一部とのことです。

全長28キロメートルに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。

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↑古墳への通路となっているため、あまり堤の面影はありません。

当時、堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまいました。

遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わりました。

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↑2.5キロメートルほど南にある行田市堤根には、この石田堤が残されています。

ここは行田市により、「石田堤歴史の広場」として駐車場と広場が整備されています。

ここの堤は延長282メートルあり、埼玉県指定史跡にもなっています。

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2019年9月 1日 (日)

利根川の水を東京都の水道水に利用できる仕組みとしての利根大堰

東京都の水道水というと、都内にある奥多摩湖や多摩川のイメージが強いですが、実際には違っています。

多摩川水系は全体の2割ほどで、荒川や利根川水系が8割ほどを占めています。

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↑その利根川の水を利用するために利根大堰があります。

埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の境界にあります。

太平洋の利根川河口からは154キロの地点と言います。

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確かに以前は多摩川に大きく依存していた東京の水ですが、昭和の高度経済成長期から増えていく水需要に応える必要が生じていました。

そこで昭和38年(1963)に利根導水路計画により、利根川の水を利用することとなりました。

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↑利根川右岸側にある取水口を堰の下から上流に向けて見てみると、川幅も取水口も広いです。

この計画により、昭和40年(1965)に武蔵水路が完成し、昭和43年(1968)に利根大堰も完成しました。

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↑堤防となっている土手の下を潜って、それぞれの水路に流れていきます。

これの無かった、前回の東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)は、東京砂漠と言われるほどの渇水に東京は直面して大変だったそうです。

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↑奥に見えていた水路を横断する道路から取水口の方を振り返って見ると、「須加樋管」と書かれています。

↓ここから南に向けてはいくつもの水路に分かれていきます。

水資源機構の利根導水総合事業所のHPによると、利根導水路事業の目的は大きく3つあります。

右から「見沼代用水路、武蔵水路、埼玉用水路、邑楽用水路」と書かれています。

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