東村山市役所近くにある平和塔公園の境塚、あちら側にあるという浅間塚と今後は見られないであろう景色
前を通る時にちょっと気になっている神社の案内板がありました。
東村山市役所や東村山警察署前の府中街道西武新宿線踏切を渡ったすぐ西のところに、平和塔公園があります。
階段の付いた小さな山があるだけの公園で、この名称も不思議でした。
↑この小山は「境塚」というようで、東村山市教育委員会による説明板があります。
江戸時代に幕府は武蔵野原の新田開発をすすめましたが、延宝、元禄年間には入会地の開墾をめぐって幕藩領主層と自立農民との対立も起りました。
延宝8年(1680)には「境目絵図」がつくられたり、その後村々にはこのような境塚が築かれたということです。
境塚の上には、昭和36年に平和の女神像が立てられたのでこの公園の名前となったようです。
ここは元「大塚」で、今はなき「小塚」も近くにあったそうです。
説明板には「あちら側にある」という表現で、浅間塚についても書かれています。
しかし、「あちら側」が頂上からも見えないので、住宅街を探し回ってみました。
↑北の方にそれらしきものがありました。
禁止という看板が見えたので入れないのかと思いましたが、立ち入り禁止ではなく、はりがみ禁止のようで南東側には登れるように階段がありました。
この浅間塚のところにも東村山市教育委員会による説明板がありました。
この塚は富士塚ではありませんが、頂上に富士信仰の浅間神社が祀られており浅間塚と呼ばれているということです。
江戸時代の文化文政の頃から各地に富士山を模した富士塚も築かれましたが、これは違うようです。
でも、祠はあります。
↑浅間神社の祠は西宿(現在の東村山市諏訪町一、二丁目辺り)の人々が天保13年(1842)に建てたものだそうです。
こうした塚はみんな富士塚なんだと思っていましたが、そうではないことを知りました。
この浅間塚も境塚も、東村山市指定史跡になっています。
浅間塚登り口のところは、南東の久米川駅方面から西武新宿線がカーブしてくるところです。
↑府中街道の踏切がありますが、ここ東村山では連続立体交差化の工事が進められており、踏切はなくなります。
↓この線路は北に向かい、すぐ先の東村山駅手前で西武国分寺線と合流します。
鉄道が高架化されるので、立体交差化工事が完了すれば、この浅間塚は高架橋に囲まれてしまうのでしょう。
この辺りの風景もだいぶ変わります。
↑近くの国分寺線を跨ぐ歩道橋の上から東村山駅方向を見てみました。
真ん中あたりの木が生い茂ったところが浅間塚です。
工事完了後にはこの歩道橋もないでしょうから、この景色は見られなくなると思うと残念です。
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