負けたから白旗を揚げたのではない白旗塚のある小手指ヶ原古戦場跡と誓詞橋
小手指といえば、西武池袋線の行先としてよく見聞きする名前で、昭和45年(1970年)に小手指駅と車庫ができました。
小手指行きの電車が走り始めた時は、まだ子どもだったので「こてさし」とは読めずに何て読むのだろうと思っていました。
小手指というと、もう一つ歴史上有名なのが小手指ヶ原古戦場です。
小手指駅からはだいぶ離れていて、国道463号線所沢入間バイパスの少し南側にあります。
小手指ヶ原は元弘3年(1333年)に鎌倉に攻め込むため目指す新田義貞軍とそれを迎え討つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した古戦場と伝えられています。
↑ここには小手指ヶ原古戦場碑が建てられています。
鎌倉街道が通っていたため、この辺りではこの一回だけでなくしばしば合戦が行われており、小手指ヶ原というはここだけでなく周辺一帯のことのようです。
↑碑の西に向けては、林の中のいい感じの小道があり、その60m程先には白旗塚があります。
白旗というと、負けた時に掲げる旗というイメージがありますから、ここで敗戦した軍の話かと思ってしまいます。
しかし、白旗塚は新田義貞がこの塚上に源氏の旗印である白旗を掲げたということから名付けられています。
でも、新田義貞は鎌倉幕府を倒したのに源氏なのかという疑問が次に湧きました。
調べてみると、新田義貞の正式名は源義貞と言うのだそうです。
確かに、当時の鎌倉幕府は源氏というより、執権である北条氏の幕府というものですから、幕府を攻める方が源氏でも構わないということでしょうか。
でも、やはり混乱します。
↑塚の頂上には白旗塚碑とともに、石祠の浅間神社がありました。
塚が富士山みたいですから江戸時代以降の富士講の富士塚として、頂上に浅間神社が設けられているのでしょうか。
さらに、この周囲の様子を見てみます。
↑白旗塚の南側目前には、小手指ヶ原の広い空間が拡がっています。
だからこそ、この白旗塚が敵の様子を見られる重要な拠点だったのでしょう。
南側から白旗塚を見てみます。
ここだけ小高い丘になっています。
東側から見てもこんな感じですが、ネット検索するとここは前方後円墳という情報もあります。
↑左側が先程に頂上まで行った円墳部分で、右側が方墳部分ということでしょうか。
円墳の頂上から北の方墳部分を見ると、こんな感じです。
↑この白旗塚や小手指ヶ原古戦場碑のすぐ北には所沢市埋蔵文化財調査センターがあります。
平日に開館しているということで、土日は入ることはできませんでした。
歩いても北側すぐ近くには国道の交差点名にもなっている誓詞橋があります。
↑ここには左に誓詞橋の碑がり、右には供養塔がありました。
新田義貞が所属している兵に忠誠を誓わせたところから名付けられたといいますが、読みは「せいしばし」と思っていました。
どこに橋があるのか探してしまうほど小さい橋ですが、「せいしがはし」と書かれていました。
それにしても、上野国新田荘(群馬県)から鎌倉幕府を倒すため兵を挙げた新田義貞が元弘3年(1333年)5月8日に兵を挙げたといいます。
5月11日に小手指ヶ原で鎌倉幕府軍と合戦し、一進一退の激戦をしながらも5月22日に鎌倉幕府は滅びたといいます。
想像以上に時間が短いことに驚きました。
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