国登録有形文化財がいくつもある石川酒造と大ケヤキと熊川分水と下の川の合流地点
玉川上水から分流した熊川分水の流れを、熊川神社から下流に辿ってみました。
しばらく道路沿いに見ることのできた流れは直角に曲がって見えなくなり、道路と民家の間というよりも民家の敷地内を流れているところがあります。
交通量の多い睦橋通りを渡ると、民家と民家の間を流れていきます。
↑この背中越しの道の向こう側では、何やら蔵造りの建物の敷地内に熊川分水は流れていくようです。
こちらは「石川酒造」という造り酒屋で、文久3年(1863年)に創業したといいます。
ギリギリ江戸時代です。
↑「新蔵」といい、明治30年(1897年)建築のもので、酒の熟成に使われている土蔵です。
国登録有形文化財になっています。
↑さらに古い明治13年(1880年)建築の「本蔵」もあり、ここで日本酒「多満自慢」が醸造されています。
これも国登録有形文化財です。
手前には熊川分水の碑も見えます。
↑ここ石川酒造では蔵見学も無料で出来るとのことですから、このような案内表示板もあります。
さらに古い建物もあるようです。
↑「長屋門」という250年前の江戸時代の建築といいますから1770年頃でしょうか、石川家が造り酒屋を営む以前からのものだそうです。
こちらも当然に国登録有形文化財です。
ちょっと石川酒造の宣伝のようになってきたので、熊川分水の先に進みましょう。
↑敷地から出て下流方向に向かいながらも振り返って見ると、粋な黒塀がいい雰囲気です。
そして、大きな木も気になります。
福生市指定天然記念物大ケヤキで周囲は4メートルもあります。
ここは南稲荷神社で境内の参道にはには、この根を守るためにちょっとした橋も作られていて、この木を大事に守っています。
この先、熊川分水の流れは再び見えなくなってしまいますが、福生南公園で拝島段丘下の下の川に流れ込むことはわかっています。
↑公園に入ると水の流れをすぐに見つけることができますが、ここでも段丘の高低差はかなりのもので、熊川分水の水が滝となって流れ落ちています。
通路は「どうどう橋」と名付けられており、水音からこの名となったのでしょうか。
そして上に見えるどうどう橋から、さらに水は下に行き「下の川」に流れ込んでいきます。
熊川分水の水は各家庭の飲用水、生活用水、水田に引く灌漑用水、酒造、製糸業などの工業用水にも使われたといいます。
経費の70%は熊川地区の実業家3人が負担したといいますから、その一人は石川さんでしょう。
残りは140戸の家で負担したといいます。
↑拝島段丘の下で、もう多摩川の河川敷となる福生南公園はのんびりしたいい雰囲気です。
熊川分水は明治19年(1886年)から23年(1890年)にかけて工事が行われたといいますから、ちょうど本蔵の建築された年ですが、まさか日本酒の仕込み水にこの分水の水を使おうとしたとは思えません。
調べてみると、やはり地下150メートルの深さの井戸水を仕込み水としているようです。
ブログランキングに参加して、交流を広げていきたいと思っています。
いずれかポチッとお願いします。
..
.
.
« 拝島段丘の上を流れる熊川分水と下を流れる下の川に咲いている水芭蕉みたいな花 | トップページ | 負けたから白旗を揚げたのではない白旗塚のある小手指ヶ原古戦場跡と誓詞橋 »
「建築物」カテゴリの記事
- 北条政子による国指定重要文化財の廣徳寺大御堂とそこに古墳もある川島町(2020.10.11)
- 薬師池公園の名勝正式名である福王寺旧園地という謎と国指定重要文化財や都指定有形文化財などの旧家建築物(2019.09.29)
- 聖蹟桜ヶ丘駅の名前の由来になっていた桜ヶ丘公園にある多摩聖蹟記念館(2018.07.08)
- 国登録有形文化財がいくつもある石川酒造と大ケヤキと熊川分水と下の川の合流地点(2018.06.24)
- 都内で2番目に古い安土桃山時代に建築されたのに見ることと七福神巡りもできる熊川(2018.06.10)
「09西多摩」カテゴリの記事
- 南一揆の逃げ込み城であり北条氏の伝えの城になった網代城跡(2024.08.25)
- 貴志嶋神社洞窟と岩山の網代弁天山と山頂景色(2024.08.18)
- 白丸ダムでの東京都交通局の電気事業と売電先、東京発電の氷川発電所(2024.07.14)
- 鳩ノ巣渓谷とその名の由来と双竜の滝、水神の滝(2024.07.07)
- 水面に浮かんでいるようだという浮島神社と他県に迷惑かけないための霞川調節池(2024.04.07)
« 拝島段丘の上を流れる熊川分水と下を流れる下の川に咲いている水芭蕉みたいな花 | トップページ | 負けたから白旗を揚げたのではない白旗塚のある小手指ヶ原古戦場跡と誓詞橋 »
コメント