枕草子にも出てくる堀かねの井の本命なのか、堀兼神社の堀兼の井
古くから和歌に詠われる「ほりかねの井」ではないかと言われる狭山市北入曽にある「七曲井」は昨年5月に行きました。
同じ狭山市内で2kmほど東に離れたところに、その名も「堀兼の井」があります。
しかも、地名も「堀兼」で堀兼神社の敷地内にあるといいます。
道路から一歩中に入ると、趣きのあるいい雰囲気です。
神社の敷地内はどこも空気が凛としています。
まず隋身門、両側には二神像があります。
この創建は不明のようですが、万延元年(1860年)に神像を塗り替えたという記録があるので、少なくとも江戸時代後期までは遡れます。
建造物として狭山市指定文化財です。
↑門をくぐり階段を上って行くと本殿があります。
社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、水がなく苦しむ住民を見て、富獄(富士山)を遥拝し、井戸を掘らせたところ水を得ることができたため、浅間社を祭ったとのことです。
↑本殿の傍らにある説明表示板にも、堀兼神社(富士浅間社)と書かれていました。
↑下に戻ってみると、この社殿に上ってくる階段はもう一つありました。
こうして見ると富士塚のようにも見えます。
↑その通りで、このもう一つの登り口の手前には、下浅間神社があります。
しかも、下には「一合目」という表示もあります。
↑登り道の途中には小御嶽神社があり、やはり「五合目」との杭があります。
現在では堀兼神社となっていますが、かつては浅間社だったようです。
それでは、そろそろ堀兼の井を見てみましょう。
↑本殿のある高い位置から下に見ることができます。
直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組の井桁がありますが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。
実は、江戸時代には既にこの井戸は埋まっており、水も湧いていない状態だったといいます。
↑下に行き、アップで見てみます。
これを知った川越町奉行の長谷川源右衛門は、慶安3年(1650年)に新田として開発された堀金(兼)村の誕生に合わせ、井戸を掘り返して再び水が湧くようにし、さらに浅間宮を建立したといいます。
明治維新後は堀兼井浅間社と言われており、その後、村社となり堀兼神社となったそうです。
まず、平安時代前期の女流歌人である伊勢により、「いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる」の1首が詠まれました。
清少納言の『枕草子』にも、「井は堀兼の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井。さしも浅きためしになりはじめけん。」とあり、天下の第1位に「ほりかねの井」を挙げています。
他にも、紀貫之、藤原俊成、西行の歌にも詠まれています。
↑この左奥に堀兼の井が、正面奥の小山の上に堀兼神社社殿があります。
それでは、京の都でも有名となって詠まれた「ほりかねの井」は、この堀兼の井なのか七曲井なのかが問題となります。
既に江戸時代後期からも話題となっていたようで、「新編武蔵風土記稿」でも、「ほりかねの井」と称する井戸跡は武蔵野各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。
↑堀兼神社の南側は堀向農村公園となっており、農村総合整備モデル事業で作られたようです。
神社北側は堀向農業研修施設という建物もありました。
周囲には農地が多くありますから、古くから地元と密着した神社なのでしょう。
この周囲には畑が多くあり、しかもその北側には広い雑木林が広がっています。
雑木林79.1haが埼玉県により「ふるさとの緑の景観地」として指定されているようです。
あの東京狭山線を走ったことのある方はわかると思いますが、道の両側に木々が鬱蒼と生い茂っているところです。
道路は貫通しましたが、周囲のこうした環境は保全してほしいものです。
ところで、堀兼の井は埼玉県指定有形文化財の旧跡、七曲井は埼玉県指定有形文化財の史跡となっていました。
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