200年前の文化文政に築かれた清瀬市中里の富士塚は都指定文化財にもなっており登ってみる
富士山は古くから信仰対象の山であり、江戸時代中期には富士山登拝が盛んだったといいます。
当然、電車や自動車のない時代ですから、実際の富士登山は日程的にも経済的にも厳しいし危険でもあることから、代わりに各地に富士塚が築かれました。
清瀬市中里にある富士塚は、東京都指定有形民俗文化財になっています。
時代としても、まさに文化文政年間(1804年〜1830年)の築造と考えられていますから、もう200年程前のこととなります。
北側の鳥居を潜ると、登山道が九十九折にあります。
ここでは今でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されており、こちらは無形民俗文化財に指定されています。
途中、一合目から九合目までを記した小さな石柱があります。
↑登山していくと、やがて頂上が見えてきました。
江戸時代の後、明治7年(1874年)に2m程かさ上げされ、現在の高さは約9mだそうです。
九合目まで来ると山頂が見えます。
山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑があります。
この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社をかたどったものだそうです。
石祠にある文政8年(1825年)に築かれたのかと思いますが、この年に再築したという伝承があるので、文化文政年間築というように明確にはなっていないようです。
山頂からの景色を見てみます。
柳瀬川右岸側の河岸段丘縁辺になりますから、川からは結構高い位置になります。
空堀川と柳瀬川の合流する清瀬橋があり、東京清瀬線(練馬所沢線)の通るところの少し北に位置します。
↑木々が生い茂って見づらいですが、遠くまで見通せます。
↑登ってきた登山道を下に見ると、いくつもの碑があります。
下から見て、登山道に向かって右側山麓には、現在は閉鎖されていますが横穴が掘られていました。
この横穴は、富士山麓の洞窟の「風穴」をくぐることによって安産の御利益があるという胎内巡りを模して掘られた横穴だそうです。
小さな穴のようですが、だからこそ御利益があったのでしょうか。
↑横から改めて見上げてみますが、全山赤土のようです。
一般の富士塚で見られる溶岩は使われておらず、舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示しているそうです。
所沢市にある荒幡富士を4年前に見ましたが、富士塚登山も趣味の一つにしましょうか。
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コメント
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いつも拝見させていただいております!
変わりゆく街を見るのは楽しいものです
投稿: | 2017年10月17日 (火) 03時18分
コメント有難うございます。
あまり、意識していませんでしたが、街は本当に
数年で変わってしまうところもあります。
ですが、全く変わらないところもあります。
投稿: すずた | 2017年10月21日 (土) 21時29分