かみつけの里博物館と周りにある国指定史跡の保渡田古墳群では埴輪のイメージが変わる
「かみつけの里博物館」という名を見たときは何だろう、恐竜か猛獣の展示かなとも思いましたが、歴史博物館でした。
古く古墳時代には、群馬県と栃木県南部を合わせて「毛野」といわれ、それが「上毛野(かみつけの)」と「下毛野(しもつけの)」に分かれました。
8世紀の律令制施行後は、上毛野は上野国(こうずけのくに、今の群馬県)、下毛野は下野国(しもつけのくに。今の栃木県)となり、そちらには那須(県北部)も加わりました。
↑その分かれた5世紀後半頃に築造された「二子山古墳」で、全長108メートルの前方後円墳です。
その円墳部分の方から見ています。
上野国の別称は上毛といいますし、今でも、上越線新前橋駅と東北線小山駅を結ぶ鉄道は、両毛線といいますから、「かみつけ」といわれてもすぐ理解すべきなのかもしれません。
ここは国指定史跡になっている高崎市にある保渡田古墳群の一つで、周囲は「上毛野はにわの里公園」として整備されています(こちらは漢字です)。
この二子山古墳の墳丘には登ることができるようになっており、のどかないい景色を見ることができます。
その公園敷地内に「かみつけの里博物館」があり、その展示によると、ここは約1500年前の豪族の墓で、その館は「三ツ寺I遺跡」として1.5kmほどの地点で発掘されています。
全国で初めて古墳時代の豪族の館(やかた)として発掘された遺跡です。
上越新幹線の工事をする際に見つかったということで、現在は、新幹線の高架下に埋め戻され、遺跡自体は見ることはできないということです。
↑古墳の周りには広い二重の堀があり中に4つの中島があり、直径18mでマツリ(葬祭儀礼)が行われた場所のようです。
墓域は全長213mもあり、大変広く、全体は芝生に覆われており、暑い日でしたが日陰となるところもないのが厳しかったです。
墳丘の上はハチに注意との看板もあり、実際ハチがほんとうに飛んでいました。
昭和10年の調査で、群馬県内には8423基もの古墳が見つかり、全体では1万基以上が作られたと想定されています。
しかも規模の大きいものも多く、東国(関東甲信、東海地方)では圧倒的な質と量を誇っているそうです。
この「上毛野はにわの里公園」には、もう一つの古墳があるのですが、こちらはもっと迫力があります。
↑「八幡塚古墳」という全長96メートルの前方後円墳で、築造時期は5世紀後半、二子山古墳に続いて造られたと考えられています。
こちらはより当時の様子が復元されており、墳丘部や内堀のなかにある中島の法面には葺石を施してあります。
なんといっても埴輪がたくさんあります。
↑内堀、外堀、外周溝により三重に区画され、4つの中島があります。
墳頂部や中島等に円筒埴輪が巡らされており、埴輪の数は6000本以上です。
また、内堤には2か所の形象埴輪配列区があり、100体以上の人物や動物埴輪が出土しました。
↑内堤上には54体の人物・動物埴輪等が配置された「形象埴輪配列区」が復元されています。
兵士や馬もあり、人物の方は立ったり座ったりしていて、儀式を行っているようです。
博物館には、狩猟の様子と思われる狩人や猟犬、そして矢が刺さり血を流している猪の埴輪もあり、私の思っていた「はにわ」のイメージは大きく変わりました。
↑後円部からは中に降りていけるようになっており、石棺展示施設も設置されており、舟形石棺があります
群馬県は「埴輪王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究のメッカとされ、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土しているそうです。
埴輪には人、馬、家などの様々な形があることは知っていましたが、なんというか素朴な形のものばかりかと思っていましたが、この認識は違っていたようです。
↑マツリが行われたという中島越しに八幡塚古墳を見ていますが、復元されると、この中島も二子山古墳で見たものとは大分イメージが違います。
これらが造られた5世紀後半と言えば、倭の五王のうちの倭王「武」といわれる雄略天皇のいた頃になります。
その当時、この辺りを治めていた人の墓なのでしょう。
↑さらに、保渡田古墳群には、「薬師塚古墳」という全長105メートルと推定される前方後円墳もあります。
築造時期は5世紀後半で、3基の中で最も遅く造られました。
これは、公園横の西光寺の境内にあります。
↑裏側の道路から見ると、確かに古墳の墳丘のようにも見えます。
ここで江戸時代に発見された馬具、鏡及び玉類は国指定重要文化財になっています。
まあ、すべての古墳を公で敷地購入して復元するのは困難なので、こういった例もあるのでしょう。
帰り道、振り返ってみると、水田の稲穂の向こうに二子山古墳の芝生が見え、のんびりしたいい景色です。
三ツ寺I遺跡も復元されていれば、立ち寄りたかったものです。
館は5世紀後半から6世紀始め頃のもので、石を葺いた水濠で囲まれた中に柵をめぐらせ、堅穴住居や掘立柱の建物、石敷の遺構があり、館、倉庫、祭祀の場、従者の住居などがありました。
榛名山の噴火による火山灰の下にあったことが、保存状態という意味では良かったそうです。
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