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2017年6月18日 (日)

埼玉県南部唯一の前方後円墳の柊塚古墳と黒目川の終点にあるゼロキロポスト

黒目川沿いを自転車に乗って下流方面に向かって、再び朝霞市まで行きました。

先日行った城山公園の少し先に、埼玉県南部で唯一、墳丘が現存する前方後円墳があるというのです。

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↑黒目川の右岸側すぐ近くですが、中央部の木の生い茂った小高い丘のようなところに位置する「柊塚(ひいらぎづか)古墳」です。

柊塚古墳歴史広場として整備されており、駐輪場だけでなく駐車場までありました。

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↑馬形のモニュメントがありますが、ここからほんとうに馬形埴輪が発掘されたそうです。

墳丘は標高21mの位置にありますが、黒目川下流部のこの辺りは標高3m程度しかありませんので、標高差は20m近くあります。

柊塚古墳は発掘調査の結果、6世紀前葉のものといい、埋葬施設は二カ所あるようですが、誰の墓かはわかりません。

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埼玉県といえば、4年前に行った行田市にある「さきたま古墳群」が有名ですが、県南部にもこんな古墳があったとは知りませんでした。

古墳の墳丘の周りには周濠もあったようです。

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現在でも「後円墳」の部分は形がわかりますが、「前方」(前の方ではなく、前にある四角形)の部分は原型を留めていません。

住宅等で開発されてしまったようです。

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↑右のほうが、前方の部分ですが、切れてしまっています。

円墳の裏側に廻ることができますが、頂上部まで登れる通路があるのですが、入口が閉鎖されています。

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この公園には不思議な形だなと思われる小さな建物がありました。

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トイレなのですが、やはりここで発掘された家形埴輪を模しているそうです。

柊塚古墳は墳丘長約66m、後円部直径約48m、前方部長約18mの前方後円墳で、地表からの高さは後円部で約7mでした。

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↑右手前が「前方」、左奥が「後円」ですが、この辺りに周濠があったようで、幅6~15mあり、前方部前面で途切れることがわかっています。

周濠底面から墳丘後円墳までの高さは約8.5mでした。

円墳の裏を通って南側の出口から出ると、柊坂という坂道がありますが切通のように作られていますから、右と左の丘は昔は繋がっていたのでしょう。

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ここがかなり高い位置になっていることがわかります。

墳丘の北側に戻ると、ここは北東方向に視界が開けていますから、いい景色を見ることができます。

東の方角には新河岸川と荒川の間の朝霞水門が見え、その向こうには外環道の幸魂大橋も見えます。

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せっかくここまで来たので、黒目川の終点である新河岸川との合流地点まで行ってみることとしました。

左手前から黒目川が流れてきて、左奥側から流れる新河岸川と合流し、右へと流れて行きます。

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よく見ると、境界杭のようなものがあります。

「0.00」と表示してありますから、黒目川のゼロキロポストのようです。

さらに左側には、「右岸 新河岸川合流地点から0.0km」と書かれた案内標識もありました。

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結構、川沿いはよく走っているのですが、初めて見ました。

帰りは北朝霞駅からJR武蔵野線に乗って輪行で帰りました。

よって、自転車走行距離は21.62kmでした。

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