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2017年5月

2017年5月28日 (日)

埼玉県内最古である室町時代建築の国指定有形文化財の神社建築物と落差12mの滝のある毛呂山町

JR八高線に毛呂という駅があり、ここは埼玉県毛呂山町になります。

駅西口には埼玉医科大学やその病院があり、のどかな風景の駅が多い八高線の駅の中では異色の存在です。

そんな毛呂駅東口には、小高い丘陵がありその上には「出雲伊波比神社(イズモイワイジンジャ)」があります。

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この丘は臥龍山といわれ、この神社には室町時代の1528年(享禄元年)建築の神社社殿があります。

神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によれば、53年(12代景行天皇の時代)に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が天皇から賜ったヒイラギの鉾を納め神宝とし、出雲の大己貴命(オオナムチノミコト)を祀りました。

さらに出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)とともに出雲伊波比神としたとされています。

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この拝殿は後ろ側から見ても美しいのですが、この右の奥にも、さらに建築物があります。

神話の時代を過ぎ、奈良時代の772年(宝亀3年)の大政官符によると朝廷から幣帛(神前に供えるもの)を受けた官弊社であったとの記録が残っています。

鎌倉時代には源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、室町時代の1527年(大栄7年)に消失後、毛呂顕繁により再建されたのが現在の本殿といいます。

国指定重要文化財に指定されている埼玉県最古の神社建築です。

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↑裏側にあった建築物を囲いの隙間から覗くように見てみましたが、国指定重要文化財に指定されているのは、実はこの裏側にある本殿のようです。

毛呂町公式サイトではわからなかったのですが、文化庁公式サイトで確認できました。

この出雲伊波比神社では、流鏑馬(やぶさめ)も11月には行われているそうです。

ところで、拝殿正面に奉納されている流鏑馬の的のようなものには、瀬戸大也と書かれていました。

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無知なので、どこかで聞いたことのある名前だなあとしか思っていませんでしたが、その日の夜のニュースを見ていてびっくりしました。

オリンピック水泳のメダリストで、この日に婚約を発表していましたが、毛呂山町の出身だそううです。

この後、毛呂駅からは3~4km位の距離がありますが、見てみたい滝もあるので行って来ました。

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この日は車で来ており、途中までは広い県道ですが途中の毛呂山総合公園やゴルフ場のさいたまGCの辺りから狭い道となっていきます。

そうはいっても、すれ違える道幅はありますし、滝の近くには駐車場やトイレも整備されています。

↑そこからは細い宿谷川沿いを進みますが、遊歩道が整備されています。

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2017年5月21日 (日)

平安時代か鎌倉時代からあったらしい特殊な形の七曲井と名前とは裏腹に氾濫する不老川

埼玉県道所沢川越線は、鎌倉時代の主要道の一つであった鎌倉街道上道(かみつみち)と重複しているところが多いようです。

鎌倉から関東諸国や信濃、越後への道として利用されていました。

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西武新宿線入曽駅近くである狭山市北入曽のその道沿いには、歴史のある井戸があります。

七曲井(ななまがりのい)といい、史跡として埼玉県指定文化財となっています。

周囲70m余、直径26m、深さ11.5mという大規模な漏斗状(ろうとじょう)井戸です。

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堅掘り井戸を掘る技術が確立される近世までは、この井戸のように漏斗状に地下水まで掘り下げたと考えられます。

井戸に降りる道は上部で階段状、中央部では曲がり道、そして底近くでは回り道となっており、この道の形状が名前の由来となっているといわれています。

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井筒部は人頭大の石で周囲を囲った中に松材で井桁が組んでありました。

井戸この土地の小字は「堀難井」(ほりかねい)は「ほりがたい」かということで、古来この地方に住む人々にとっては飲料水を得ることが 困難だったようです。

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府中から入間川に至る奈良・平安時代の古道沿いにあるため、平安中期に開拓と交通の便を図るため、武蔵国府の手により、9世紀後半から10世紀前半に掘られたと考えられています。

鎌倉時代の初め、建仁2年(1202年)という説もあるようです。

こうした独特の構造の井戸が掘られたのは、武蔵野台地は地下水脈までの距離が長く、深い井戸を掘らなければならないが技術的に困難でした。

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そのため、地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ、そこから改めて垂直の井戸を掘るといことになりました。

↑先ほどと反対側から見ています。

形がカタツムリのようなので、「まいまいず井戸」と呼ばれています。

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↑すぐ横を不老川(ふろうがわ)が流れています。

この川は新河岸川へと合流する荒川水系の一級河川ですが、この辺りでは幅も広くなく、水量もそれほどありません。

しかし、この川は昨年夏には氾濫してニュース等で取り上げられました。

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2017年5月14日 (日)

有名なはずなのにどこかわからない清瀬せせらぎ公園って意図的にそうしているのか

都庁1階や羽田空港などにある東京観光情報センターで配布されている「東京の観光公式ガイド 東京ハンディガイド」の地図に「清瀬せせらぎ公園」というものが載っています。

どこにあるのか思えば、よく通る空堀川のすぐ近くのようだというのに、見たことも聞いたこともないので、GW中の良く晴れた日に探しに行ってみました。

空堀川左岸から下流を見て、石田橋の手前右岸から奥に清瀬せせらぎ公園はあります。

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何度もこの川沿いを通っていますが、公園があることに気づきませんでした。

空堀川の河川改修によってできた旧河川敷を活用して、そちらに清流を復活させたといいます。

空堀川はこの日も名前通りに空堀で、わずかな水が水たまりにあるだけでしたし、構造上も現在の川の水が流れ込む仕組みにはなっていません。

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↑でも、清瀬せせらぎ公園のせせらぎ起点ゾーンとされた石の隙間から、水が流れています。

公園といっても、旧河川敷ですから細長い空間で、水は住宅街の間を流れていき、左岸には遊歩道があります。

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中里橋からは親水散策ゾーンとなり、右には清瀬第四小学校があります。

ここからは少し水量も増えているようです。

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中里二丁目の約510mの区間に、清瀬市立清瀬せせらぎ公園は整備されています。

この復活させた清流の水は深さ70mの井戸から汲み上げたものを利用しているようです。

また、一部の水はそれを循環させているようです。

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途中には右岸に学習管理棟という建物もありました。

さらにその下流では、本当に子どもがせせらぎの中に入り水に親しんでいました。

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市の職員かボランティアの方かわかりませんが、子どもに水中の生物の説明もしていたようです。

この先の宮下橋からは公園及びせせらぎは、林の中に入り、生態保全ゾーンとなります。

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ここから先の様子も気になるところです。

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2017年5月 7日 (日)

全国で2つしかない本丸御殿が現存する川越城と通りゃんせに歌われた天神の細道じゃ

天守閣がある城は有名なものがいくつもありますが、本丸御殿が現存し大広間があるのは高知城と川越城だけだといいます。

ちなみに、二の丸御殿が現存するのは、以前見に行った掛川城と京都二条城だけです。

その川越城本丸御殿を見に、引き続き、川越市自転車シェアリングを利用して行きました。

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川越城は、室町時代に太田道灌または父の太田道真によって築かれましたといいますから、江戸城と同様です。

扇谷上杉氏の武蔵国支配の居城となりますが、日本三大夜戦の一つ河越夜戦で後北条氏に敗れ、さらに安土桃山時代には、豊臣秀吉の小田原成敗を経て、江戸時代には川越藩として、徳川家康の譜代、酒井氏の城となりました。

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この本丸御殿は、1848年(嘉永元年)松平斉典が造営したものです。

もっとずっと大きかったようで、本丸御殿だけで16棟、1025坪あったそうです。

その玄関部分と大広間は残されており、埼玉県指定有形文化財となっています。

↑玄関が廊下の中心部にあり、左へ時計回りに向かっているので、長さのイメージが湧きづらいですが、この東廊下は40m近くの長さがあり、幅も3m以上あります。

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↑順路としては最後に見ることになる玄関前のこの広間は、36畳もの広さがあり、部屋の中に入ることもできるようになっています。

大広間がこんな玄関からすぐの位置にあっていいものかとも思いますが、近世の城の本丸御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設となっていました。

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↑庭は美しい枯山水の庭園となっています。

まあ、これが当時からあったかはよくわかりません。

家老詰所だった建物もありますが、これは移築されたということで、当時はもっと離れていたようです。

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川越藩は相模国の三浦半島にも領地をもっていたため、幕末には海岸警護も命じられていました。

さらには、品川台場の警備も命じられたということで、その打ち合わせをしているという家老たちの人形もあります。

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これは予想外にいきなり現れるので、びっくりしてちょっと声を出しそうになりました。

ところで、童謡「通りゃんせ」といえば、子供の頃から知っているし、歩行者用信号機でもボタンを押すと流れていました。

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2017年5月 1日 (月)

川越で国登録有形文化財を見て回って、意外とよく知らなかった建物の平と妻、梁と桁、切妻造と寄棟造の違いを学ぶ

小江戸川越として観光地となってきている川越に、国登録有形文化財である建物を見に行きました。

↓本川越駅から北東方面にすぐのところ、左に写っているのが「旧鏡山酒造明治蔵」です。

川越市の産業観光館「小江戸蔵里」おみやげ処となっており、新築かとちょっと興ざめするほどにきれいに改修されています。

元の建物は、明治時代の土蔵造2階一部平屋建、瓦葺、建築面積418㎡で、南北棟の切妻造妻入で、桁行21m梁間20mです。

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実は用語がよくわかっていないので調べてみたのですが、建物の長辺側、屋根の最頂部である「棟(大棟)」と平行な面を「平(ひら)」といい、短辺側、屋根の棟(大棟)と直角な面を「妻(つま)」といいます、

正面出入口が平側にあるものが「平入」、妻側にあるものが「妻入」です。

↑右にあるのは「旧鏡山酒造大正蔵」で、同じく小江戸蔵里まかない処(レストラン)となっていますが、建物は大正時代の土蔵造2階一部平屋建、瓦葺、建築面積304㎡です。

切妻造で、桁行22m梁間14mです。

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↑奥に小さく見えているのは、「旧鏡山酒造昭和蔵」で、小江戸蔵里くら市場(地場野菜、総菜の物販)ですが、1931年(昭和6年)の土蔵造2階建、瓦葺、建築面積231㎡の建築物です。

東西棟で桁行25m梁間9.1mの切妻造です。

「桁(けた)」は建物最上部の大棟に対して平行方向(平側)にある水平材で、その長さを「桁行(けたゆき)」といい、「梁(はり)」は大棟や桁に対して直行方向((妻側)に掛かる水平材で、その長さを「梁間(はりま)」といいます。

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↑大正浪漫夢通りを少し北に向かうと、川越商工会議所がありますが、ここは「旧武州銀行川越支店」で1928年(昭和3年)の建築物で、鉄筋コンクリート造地下1階地上2階建,建築面積566㎡です。

外観はドーリス式の列柱を配した重厚な構え、全体の意匠はルネッサンス・リバイバル様式です。

バロック風の装飾を付けた特徴的な出入口を設けるなど,時代の特徴を伝える銀行建築の一つといいます。

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↑少し東に行くと、「日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂」があります。

1921年(大正10年)の煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積138㎡、塔屋付の建物です。

立教大学新築のため来日したW.ウィルソンの設計により建設されたといい、確かに池袋でも見たことのあるような外観です。

東西に細長い切妻造・平屋建で,外壁煉瓦造,内部は挟み組み式の小屋組を見せ,尖塔アーチの縦長窓や控壁にゴシック様式細部を備えているそうです。

続いては、観光地である蔵が立ち並ぶ一番街通り沿いにある目立つ建物です。

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