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2015年4月19日 (日)

旧司法省の法務省赤れんが棟と井上馨の不平等条約改正の取り組み

霞ヶ関にある法務省赤れんが棟は、国の重要文化財に指定されています。

元々は、司法省の建物で、明治28年(1895年)に竣工したものです。

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第二次世界大戦により、れんが壁とれんが床を残し、それ以外は焼失してしまいましたが、今は明治時代のものに復元されています。

現在は法務総合研究所となっており、この3階には法務資料展示室があり、そこだけ見学することができます。

そこには旧司法大臣官舎大食堂の様子が再現されています。

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展示資料は撮影禁止とのことですが、建物ならいいとのことでした。

明治政府は、江戸時代の末期にアメリカなど五か国と締結した、安政の不平等条約の改正のため、近代国家の体制を整えようと必死で、鹿鳴館を作り舞踏会を開いたりしていました。

鹿鳴館は、明治16年(1883年)にイギリス人コンドルにより設計され建てられましたが、次はヨーロッパに負けない官庁街を作ろうと、ドイツ人エンデとベックマンが招聘されました。

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条約改正しようとしていた外務卿(のち外務大臣)井上馨は、明治19年内閣臨時建築局の総裁として、熱心にこれに取り組みました。

ベックマンは東京中心部の大規模な都市計画図としての官庁計画を作成しました。

また、議事堂、司法省、裁判所の図面を作成しました。

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しかし、井上馨の条約改正調整案は、領事裁判権の撤廃の条件として、外国人判事を任用するので、明治19年ノルマントン号事件やボアソナードの反対により、明治20年7月には条約会議は無期限延期とされました。

伊藤博文首相の時代のことですが、日比谷練兵場跡地への官庁集中計画は閣議決定されますが、井上馨は更迭され、官庁計画は内務省の所管となりました。

計画は止まってしまうのでしょうか。

ベックマンの設計案で、司法省は建設されることとなりますが、日比谷練兵場の海側は軟弱地盤で建物が建てられないことがわかり、その後、明治21年に司法省は予定より西に着工され、28年に竣工しました。

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↑展示室ベランダから見ると、すぐ北には皇居の桜田門があります。

当初は、ここよりもっと東(右)に建設される予定だったようです。

大正12年の関東大震災では、この建物はほとんど被害を受けませんでしたが、昭和20年の空襲による戦災により、れんが壁とれんが床だけを残して消失してしまいました。

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↑明治時代から残るれんが壁が展示室にあります。

戦後、昭和25年までに改修され、法務省本館として使用されてきましたが、平成3年から明治時代のものへの復元改修工事が進められ、平成6年12月に完成しました。

今でもこの一角は法務省や東京地方裁判所などがありますが、当時はこの隣に、同じくベックマン設計の東京裁判所もありました。

当時は、現在でいう最高裁判所である大審院もその中にあったそうです。

↓今でも南側(右) は、テレビで東京地裁が話題になると、よく見かける建物です。

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結局、井上馨とともに時代の波に翻弄されてしまったベックマンは、明治23年8月に解雇されてしまいますが、賠償金35000円が支払われました。

大臣の年棒が6000円だった時代なので、お雇い外国人に対して日本は破格の扱いをしていたことがわかります。

この建物ができた後も、官庁街は大手町と霞ヶ関の二ヶ所に集中していましたが、関東大震災により木造の建物は倒壊消失し、結局、霞ヶ関にすべて集中することになりました。

井上馨の想定していたものよりは、小規模となってしまったことでしょう。

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ここ法務資料展示室は、平日にしか入れません。

しかも、テロ対策なのでしょう。法務省敷地内は非常に厳しい警備体制でした。

建物裏側(東側)の写真も撮りたかったのですが、そちらには行くことができませんでしたし、建物内でも展示室以外には行かないように、入口から展示室まで守衛さんの監視?付きでした。

門の守衛さんからは、「建物の(指差しながら)あの入口↓から入って、同じところから出て来て下さい。そうしないと、とんでもないことになりますから」と言われました。

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「とんでもないこと」って、どんなことなのだろう。その時、私はどうなってしまうのだろう、と思いましたが、きっと、私にとってというよりも、守衛さんたちにとって「とんでもないこと」になるのでしょう。

私は素直に同じところから出てきましたから、とんでもないことは起きませんでした。

まあ、こうして明治時代の建物が復元されて、しかも法務省の中に入ることができるだけでも、幸せな世の中なんだなあと、改めて実感しなければいけないのでしょう。

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