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11東京23区

2018年2月11日 (日)

渋谷にあると思えないほど土偶や埴輪や土器がいっぱいで静かな環境の國學院大學博物館

目的地の博物館は、渋谷駅から歩いて10分ちょっとで道はわかりやすく、六本木通りを東に向かい、実践女子大学と青山学院初等部の間の道を右に曲がったところにあります。

ところで、渋谷駅周辺では再開発工事の真っ最中なので、行くたびに景色が変わっていきます。

この日も駅から歩道橋で明治通りと六本木通りを渡り、渋谷警察署側に行くつもりだったのに、歩道橋が繋がっておらず、2つの歩道橋のために2度も階段を登ることになりました。

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↑國學院大学学術メディアセンターの半地下に「國學院大學大学博物館」があります。

この学校名の「國」も「學」も旧字体であることを初めて知りました。

また、この学校の母体は明治15年(1882年)に創立された皇典講究所であることも知りました。

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↑入口を入っていきなり火焔型土器があります。

レプリカですが、手に触れることができるので、3kgという重さや手触りのザラザラ感も味わうことができます。

この新潟地方で出土する火焔型土器を東京オリンピックパラリンピックの聖火台にしようという運動が行われていることも初めて知りました。

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↑縄文時代の土偶があります。

考古学はまさに文字のない時代のことを、発掘された物から読み解くものですが、土偶には興味引かれます。

主に祈りのために作られたようですが、何千年も前の人達は何を思い、こんな顔や形のものを作ったのかと思うと面白いです。

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↑ここには予想以上多くの展示物があり、土偶も破片のような一部しかないものも多数置いてあります。

見れば見るほど不思議です。

この博物館は、考古、神道、校史の3つがテーマとなっており、撮影可能なものと不可能なものが区別されており、考古ゾーンは撮影できます。

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↑縄文式土器も多過ぎて全部見ることができないほどです。

別のところには弥生式土器もたくさんあります。

土偶と土器のハイブリッドのようなものもありました。

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↑中央にあるのは「挙手人面土器」で、身体の形をした土器で胴部に顔面、口縁部に腕を模した一対の突起があります。

予想外なことに、縄文時代ではなく、古墳時代前期の4世紀のものといいます。

古墳時代ものとしては、埴輪がありますが、大きさに驚かされました。

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2018年1月21日 (日)

西新宿駅のすぐ近くの成子天神社にある富士塚からの眺めとクランク形状敷地での再開発

地下鉄丸ノ内線の西新宿駅のすぐ近く、青梅街道沿いに100mほどで成子天神社の参道があります。

北に向かう参道の左にはマンションが迫りますが、右側は開発されておらず低層住宅などが並びます。

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奥に見える神門の左右には風神雷神像があります。

つい最近の平成26年に成子天神社全体が再整備されたようで、本殿も含めすべて新しいものです。

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↑さすがに西新宿ということで、本殿の左には先程とは別のマンション、奥にもマンション、右は社務所です。

江戸時代中期より江戸庶民の間で盛んになったという富士信仰のための富士塚がこの敷地内にあります。

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しかも、江戸時代でも明治時代でもない、大正9年(1920年)に築かれたという新宿区内では最後に築かれた冨士塚だといいます。

成子天神社内にあった天神山という小山に溶岩を配して築いたそうです。

3か月前に見た清瀬市中里の富士塚と違うのは溶岩があるところですが、この方がより富士山らしく見えます。

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↑途中からは結構急斜面となり、小さなお子様やお年寄りは危険なので登頂禁止と書かれています。

高さは12mでこれは新宿区内では一番高い富士塚となるそうです。

新宿区登録文化財史跡です。

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↑先程の東側からだけでなく、この西側からも登山道はありますが、こちらも急なので、男坂女坂という区分けでもなさそうです。

それでは、いよいよ山頂からの景色を見てみましょう。

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2018年1月14日 (日)

石神井の日銀グラウンドは公園になっていて暑いアメダス練馬観測所やオーディオ展示もあった

かなり前から、石神井公園の三宝寺池北側には広い日銀グラウンドがありました。

調べてみたら、日本銀行石神井運動場として昭和9年(1934年)に開設されたもので4.7haもの広さがあります。

東隣にある東京海上グラウンドとともに、三宝寺池から富士街道に通り抜けるためには迂回しなければならない、入ることのできない存在でした。

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↑それがその富士街道側からの門が開放されており、通り抜けられるようになっています。

平成19年(2007年)に日本銀行から練馬区に石神井運動場の購入に関する意向確認があり、翌年には日本銀行と練馬区で売買契約にかかる基本合意書を取り交わされ、練馬区が取得したようです。

石神井公園は東京都立公園ですが、こちらは「練馬区立石神井松の風文化公園」というみたいです。

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北から見て、左にテニスコート、右に芝生のグラウンドというのは日銀の頃と同じようですが、新たに整備工事が行われたようです。

しかし、木々は以前からのものが残されているようです。

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↑兼六園で有名な雪吊りや松のコモ巻きもされています。

雪吊りは積雪により枝が折れるのを防ぐためとは知っていましたが、コモ巻きは越冬のため木の上から落ち葉の下に降りてくる虫を集めるて、病害虫から松を守るものだだそうです。

公園の名前の通り、ここには松、アカマツがたくさんあります。

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↑松林の広場と名付けられたここでは、バトミントンやキャチボールなどで楽しんでいる人たちがいます。

さらにこの公園の西の端には、気象観測のためのこんなものもあります。

露場で「アメダス練馬観測所(練馬地域気象観測所)」です。

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夏のニュースでは、「日中は暑くなり、東京の練馬では最高気温は37℃となりました」などとしてよく出てくるところです

以前は江古田駅に近い武蔵大学の方にあったものの、周辺が開発され風通しが悪く、気温が高く出過ぎるから7kmほど西のこちらに移転させたという話を聞いたことがあります。

練馬における過去の最高気温は何度だったのか気になり調べてみました。

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2017年12月10日 (日)

江戸時代から400年以上の歴史のあるホテルニューオータニの庭園にある高価な石や滝

ホテルニューオータニといえば、ホテル御三家の一つですが、広く立派な日本庭園があります。

ここに所用で行った際、宴会場フロアに日本庭園入口というのがあったので、ちょっと寄ってみました。

このホテルは広い上に高低差もあるところなので、北の上智大学側から入ると宴会場フロアは「ザ・メイン」の1階なのですが、そのまま歩いているといつのまにか、南の赤坂見附駅側の「ガーデンコート」や「ガーデンタワー」では5階となっています。

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↑その宴会場フロアから庭園に出ると、まず大きな石があります。

「赤玉石」という佐渡島の金山より運ばれた庭石で、一番大きいものは重量22トンもあり、これは日本一の大きさです。

なんと砕くと金が出てくるという高価な石です。

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そのすぐ先には枯山水の庭があります。

高級ホテルには庭園があるところは多くありますが、このホテルの敷地には江戸時代初期の徳川家康の時代には加藤清正の下屋敷があったところということです。

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二代忠広の時代に加藤家が改易になり、この屋敷は幕末まで井伊家の中屋敷となりました。

あの大老井伊直弼が鎖国を止め日米修好通商条約を結んだことから、桜田門外の変で暗殺された井伊家です。

地名の紀尾井町は、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったから名付けられています。

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↑池の中にあるのは「佐渡の化石」という江戸時代からの大木の化石だといいます。

加藤清正の時代から残っているもので、 木の根がそのまま化石になった珍しい石とのことです。

ということは、400年以上前からこの庭や池があるということになります。

庭園内には4個の化石があるといいます。

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↑庭園にはいくつもの石があり、この池の傍らにも高そうな石があります。

「清泉池」という名のこの池の水は湧水のようで、元々は外濠の水源にもなっていたはずです。

池に架かる太鼓橋は朱色に塗られており、紅葉の季節には美しいものです。

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2017年10月 9日 (月)

豊洲市場は敷地が広く一つの建物はとてつもなく大きいが、何もない空間もある

臨海副都心から自転車で豊洲市場に向かっていき、南側から新しく出来た富士見橋を渡ると、豊洲埠頭の敷地となります。

新しい豊洲市場の巨大な建物が見えてきます。

まず、右側に見えるのが「水産卸売場棟」です。

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マグロなどの水産物のせりをはじめとした取引が行われる場所です。

ここでは、見学者用デッキからマグロのせりを間近で見られるようになるといいます。

建築面積約49000㎡、延床面積約125000㎡、5階建です。

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↑道路を挟んで、豊洲埠頭の先端部は公園になっています。

埠頭全体をぐるっと囲むように、「豊洲ぐるり公園」として整備されています。

まだ、市場の建物の周囲には入れないので、ぐるりできませんが、敷地面積は約8.5haで、平成29年7月7日に一部開園しています。

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↑西に向けては東京湾となっていますから、レインボーブリッジがよく見えます。

↓公園の隣にあるのが、「水産仲卸売場棟」で、水産の仲卸店舗が集まる、豊洲市場で一番大きな建物です。

ここは、街の魚屋、寿司屋などが、水産物を仕入れに来る場所です。

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建築面積約70000㎡ 、延床面積約177000㎡ 、5階建です。

建築面積だけで7haですから巨大な建物です。

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↑まず最初に裏側を見た、道路を挟んだ向かい側の「水産卸売場棟」ももちろん巨大です。

これらの建物に謎の「地下空間」があると話題になりましたが、この大きさの建物を間近で見ると、地下ピット(地下空間)なしでこの建物が建つわけないなと感じられます。

その隣にあるのは「管理施設棟」です。

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東京都や各事業者の事務所をはじめ、都のPRルームや飲食店などが入ります。

建築面積約5500㎡ 、延床面積約24000㎡ 、6階建です。

十分に大きい建物なのですが、他の建物が巨大すぎるので小さく感じられます。

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↑水産仲卸売場棟のところに豊洲市場の正門と書かれていました。

↓閉鎖されていますが、中は当然に整備されています。

東京都により9月に地下ピットの床のコンクリート敷設工事の入札が行われましたが、4件では「1社入札」だったので、新たな方針により再入札となり、工事完了予定も来年6月上旬から遅れそうということです。

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この水産仲卸売場の端には、地下ではなく地上に不思議な空間があります。

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2017年6月25日 (日)

二・二六事件のあった高橋是清私邸跡地に行ったが、蔵相だけでなく首相や日銀総裁もしていたとは

青山に所用があったついでに、いつものように地図を見て気になっていたところに行ってみました。

高橋是清翁記念公園です。

過去の経済財政政策との話というと、インフレ政策としての「高橋財政」がよく話題となります。

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その高橋是清私邸跡地が港区立公園となっています。

1936年(昭和21年)の二・二六事件において、高橋是清大蔵大臣はこの私邸で青年将校らの襲撃により亡くなっています。

その邸宅そのものは、小金井公園にある江戸東京たてもの園に移築されています。

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↑この跡地公園では高橋是清氏の銅像が敷地南寄りの一段高いところにあります。

大蔵大臣のイメージが強いですが、実は総理大臣や日銀総裁にもなっています。

日本銀行に建築事務主任として採用され、西部支店長、副総裁となり、1911年(明治44年)には日銀総裁にまでなります。

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↑その高橋像のところから見た庭園の様子です。

1921年(大正10年)に東京駅で暗殺され亡くなった原敬首相に引き続き、内閣総理大臣となったのはこの高橋是清です。

なぜかそれよりも、1929年(昭和4年)の世界恐慌や昭和恐慌後、1931年(昭和6年)から大蔵大臣として実行した、積極的な財政政策や低金利政策、金輸出再禁止が「高橋財政」としてずっと有名となっています。

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↑ここには池もあり、水が流れていますが、湧き水なわけではなく、内部で循環させているようです。

高橋財政により、経済は無事に持ち直しを図ることができ、そもそも積極財政派なのに、二・二六事件で襲撃されてしまったことは残念です。

大蔵大臣を7回も務めたようです。

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↑関係ありませんが、敷地内にはこのようないくつもの、ちょっと見かけが不思議な像があります。

軍部としては武器関係の予算が無尽蔵に付くわけはないので、予算が大蔵省から削られることが不満だったことでしょう。

ここは青山通り南側の一等地ですが、通りの北側は広大な緑に被われた東宮御所などもある赤坂御用地です。

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2017年1月 1日 (日)

ブログ開設5周年と50万PVを記念して五重塔を見に池上本門寺に行く

平成24年(2012年)1月2日に開設したこのブログもお陰様をもちまして、5周年を迎えることとなります。

週1回しか更新していないにも関わらず、多くの方にご覧いただき、年末12月27日には50万PV(ページビュー)を達成しました。

有難うございます。

このことを自ら記念して、五と五十にかけて「五重塔」を見に行くこととしました。

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東京周辺で最も古い五重塔があるという池上本門寺に、初詣の準備がされている晦日の日に訪問です。

東急池上線池上駅から参道を進むと、まず「総門」がありますが、これは江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に建造されたもので、大田区指定文化財になっています。↑

さらに、その奥の長い石段は「此経難持坂(しきょうなんじさか)」といい、加藤清正の寄進により慶長年間(1596~1615年)に造られたという、こちらも大田区指定文化財です。

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96段もある石段で、標高9mから35mへと一気に登るので結構息が切れますが、この先に「仁王門」があり、さらに奥に「大堂」があります。↑

こちらも江戸時代かと思えば違うようで、昭和時代に再建されたものでした。

その左にある「経蔵」も再建ですが、こちらは江戸時代後期の天明4年(1784年)のもので区指定文化財です。

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ところで、五重塔がありません。

案内図があまりないようなので池上本門寺のサイトを検索すると、これらの右の方の墓地の中というような位置にあるようです。

よく日本史で学んだ奈良にある寺院の伽藍配置などとは違うようです。

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↑江戸時代の初期、慶長13年(1608年)に建立されたもので、関東地方に残る最古の「五重塔」です。

江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局の発願により、秀忠が寄進建立しました。

こちらは、国指定重要文化財になっています。

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こうした塔が関西と比べて関東には少ないのが残念です。

五重塔は地震に強いとよく言われますが、雷には弱く、火事で焼失してしまうそうです。

そういえば、よく五重塔の写真を見ると不自然なコードのようなものがありますが、あれは避雷針だったのがわかりました。

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先程も触れたように、周囲は墓地に囲まれていて、墓参のための車が普通に走り回っている、重要文化財らしからぬ不思議なところでした。

高さは31.8mということで、こちらも勝手に思っていたイメージよりは低いものに感じられました。

池上本門寺にはもう一つ、国指定重要文化財があるということなので見てみます。

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2016年12月18日 (日)

(後編)新国立競技場の着工前の様子を記憶そして記録しておく、赤名リカの立っていた日本青年館の建替も見る

前回の続きで、2016年12月11日に安倍首相、小池都知事らが出席した起工式が行われた「新国立競技場」について、まだ更地となっている現地の様子を目で見て記憶しておくため、そして記録を残しておくために行ってきました。

敷地を北から反時計回りの南端まで見てきましたから、次に南東に行ってみます。

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↑ここには「日本青年館」というホテルやホールのある建物がありました。

明治公園と同様、新競技場が大きくなるので移転することとなり、解体されたのです。

フジテレビの月9ドラマ「東京ラブストーリー」最終回のエンディングは、鈴木保奈美さん演じる「赤名リカ」がこの日本青年館の屋上に立って、東京の街を見ているシーンでした。

バックには、小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」のサビのところが流れています。

懐かしいですねえ、1991年放送ですが、私は再放送をビデオで見ました。

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↑その日本青年館は、やはり明治公園と同様に、元の敷地の南側にある国立競技場西テニス場のあったところで、建替工事が進んでいます。

2017年初夏オープンに向けて、16階建ての建物の建設工事が進められていますが、ここは日本スポーツ振興センター(JSC)との合築となっており、JSC本部も工費164億円のうち47億円を負担して、3フロアが割り当てられることとなっていました。

しかし、新競技場設計をめぐるバタバタがあったのに、新しい本部ビルができることに対して批判が集まってしまいました。

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↑グーグルの航空写真では解体前の様子が見られますが、旧国立競技場の北西(左上)にある4階建ての建物が旧JSC本部です。

秋頃の新聞報道によると入居を断念して別の所に移転することとし、このフロアは民間に貸し出し、賃貸料を得ることとするとありました。

まあ、どちらにしても移転はするのですからねえ、どこに入っても同じような気はします。

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↑その旧日本青年館と新日本青年館の間には、「外苑ハウス」というL字型の7階建てのマンションがありますが(写真の左側)、こちらも22階建ての高層マンションに建て替えられるそうです。

また、国立競技場西テニス場のあった敷地には、日本青年館・JSC本部棟だけでなく、日本体育協会・日本オリンピック委員会新会館も14階建てで建設される計画となっています。

ここまで来ると、ちょっとやり過ぎのようなものを感じます。

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↑これらの新しい建物のできる位置の道を挟んだ東側には、神宮球場と神宮第二球場がありますが、その辺りから、新国立競技場敷地を見てみると、こんな感じです。

この敷地を時計と反対回りに北に向かってみます。

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2016年12月11日 (日)

新国立競技場の着工前の周囲の景色を記憶そして記録しに行く(前編)

2016年12月11日にようやく新国立競技場が着工されました。

2020年7月24日より開催される東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会に間に合わせるため、2019年11月末までの3年間で工事完了させることになっています。

着工直前に、更地となっている現地や周囲の様子を目で見て記憶しておくため、そして記録を残しておくために見に行ってきました。

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↑JR千駄ケ谷駅から東に向かい、駅前の東京体育館を通り過ぎると、広大な敷地が更地となっているのが見えてきました。

奥の南に向かって行く外苑西通りを、現在いるこの道は外苑橋で跨ぐ位置にありますから、全体が見渡せます。

旧国立競技場、正式には国立霞ヶ丘陸上競技場がここにあり、1964年の東京オリンピックが開催されましたが、既に解体されています。

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↑少しだけ東に行くと、地下鉄大江戸線国立競技場前駅があります。

かつて、この裏側に独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)の4階建ての本部ビルがありましたが、やはり解体されています。

ここから右下に下りていく坂道が外苑西通りにつながっています。

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↑下に下り、外苑西通りから南の方向を見てみます。

右の東京体育館側から国立競技場側への歩道橋は撤去されていました。

この歩道橋は、先程の千駄ヶ谷駅からの上にある道と同じ高さレベルですが、新国立競技場はこの高さレベルで設計されています。

では、ここから時計と反対回りにこの外苑西通りを歩いていきます。

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↑本体工事の着工前とはいうものの、大型重機が何台か置かれていました。

付帯工事のためなのでしょうか。

奥に神宮第二球場のネットが見えるのは、今の時期だけなのでしょう。

この道路と旧競技場の間には、細長く都立明治公園の敷地がありましたが、新競技場は一回りサイズが大きくなるため、かつての公園もこの工事区域内となってしまいました。

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↑道路にある案内地図は、旧競技場がある時のままなので、公園があったこともわかります。

これは左が北として表示されていますが、「現在地」の少し右(南)の観音橋交差点から上(西)に向かう、旧競技場と明治公園の間の道は既に無くなっています。

そのかつての道路の様子を見てみます。

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2016年12月 4日 (日)

江戸城の外濠はどこからどこに繋がっていたのかと赤坂見附の見附と門の関係

江戸城の外濠というと、JR中央線の市ヶ谷から御茶ノ水辺りまでの車窓から見える景色が頭に浮かびます。

飯田橋から御茶ノ水の間は神田山(駿河台)を外濠を作るために、あえて開削したことを1年前に見て廻った際に知りました。

そこよりも下流側は、神田川(江戸時代の平川)の水が隅田川まで流れていくのはわかりますが、神田川の流れる飯田橋より反対側というか西側はというと外堀の流れがどうなっていたのかよくわかりません。

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↑しかし、先日、赤坂見附付近に行った時、弁慶濠を見て、そう言えばここも外濠だよなと思いましたので、この前後を確認してみたいと思います。

弁慶濠とはいいますが、この弁慶橋は明治時代に架けられて、弁慶濠という名も付けられたようです。

でも、江戸時代の江戸城の外濠なのだから、その痕跡はあるはずと思えば、ありました。

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↑ここも何度か通ったことはあるのに気付きませんでしたが、赤坂御門の石垣が一部保存されています。

赤坂見附の「見附」とは見張りの兵を置いた番所のことだと習ったような気がしますが、赤坂門があるからここで見張りをしていたから「見附」なのだそうです。

江戸城外堀跡は1636年(寛永13年)に作られた約14kmの外濠のうち約4kmが国指定史跡となっています。

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現在の青山通り、国道246号線である当時の大山道からの門だったようです。

内濠から江戸城への門というと現存している物も多く有名ですが、外濠の門というとあまり知りませんでしたが、ここも田安門や桜田門と同様に、二つの門が直角に配置された桝形門があったそうです。

ところで、弁慶橋から東の方を見ると、その先は埋め立てられているのか、水面は見当たりません。

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ただ、この先、最高裁判所と国会図書館の間を通り、800mほど先の三宅坂交差点の向こうは内濠である桜田濠がありますから、この向きに外濠があると、内濠と外濠がここで繋がっていたとなり変な話です。

ちょっと調べてみると、わかりました。

外濠はここから南へと向きを変え、溜池方面に繋がっていたのです。

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その名の通り、もともと江戸時代には「溜池」がありましたから、あえて開削した弁慶濠から、既に水がある溜池に通すというのは理にかなっています。

溜池の先にあるのはと考えると、虎ノ門ですから、やはりそこにも外濠の門があったことがわかります。

埋め立てられて道路になっているところを見て歩いても面白くないので、弁慶濠に沿って歩いて行ける北西側に向かいます。

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↑右のホテルニューオータニの敷地が庭園として残されているため、この辺りの風景は建物や首都高速道路を除けば、江戸時代の面影が残されているといいます。

でも、この弁慶濠は600mほど先には堤があり堰き止められています。

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↑この堰からというか土橋から弁慶濠を振り返ってみると、高いところからのいい景色です。

ここは江戸開府の最も初期に作られた見附、門の一つである喰違見附のあったところです。

他の見附とは異なり、石組のない簡易な門で枡形でもありませんが、現在も残されています。

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