東京都指定名勝となっている町田市の薬師池公園ですが、正式には「福王寺旧園地」という名称で指定されています。
薬師池という位ですから薬師堂があるようなので行ってみます。
ただし、地図や案内板には薬師堂の表示はありますが、福王寺という表示はないので、その辺も確認してみます。
↑公園内の階段の登り口の所に「薬師堂参道」と書かれています。
階段を登っていくと、まずは巨大な御神木がまず目をひきます。
現在は「野津田薬師堂」と言われているこの薬師堂は、奈良時代である天平年間(729〜749)行基の開基と伝えられています。
しかし、鎌倉時代末期の新田義貞の鎌倉攻めの時に焼失してしまったようです。
200年以上後の元亀4年(1576)にこの地に福王寺として再興されました。
↑現在の薬師堂は明治16年(1883)に再建されたものです。
前回見てきたように農業用水池として薬師池が作られた頃は、福王寺溜井と言われていたそうです。
そのため、正式名は福王寺旧園地です。
この薬師堂は華厳院というここより1キロメートルほど北にある寺院により管理されており、どうやら行基開基といわれているのはその華厳院のようです。
福王寺溜井は寛永年間(1624~43)に作られたと前回書いたのは、公園内の東京都教育委員会による名勝の案内板によるものでした。
しかし、園内の別の案内板をには、戦国時代の天正5年(1577)滝山城主としてこの辺りを支配していた北条氏照の許可によって、周辺農民により十数年かけて農業用水池として開拓されたとの表記もありました。
どちらが正しいのでしょうか。
↑薬師堂からさらに階段を登っていくと、視界が開け、この薬師池公園を東から南を通り西へと取り囲んでいる尾根道にでます。
ここは標高100メートルを超えていますから、池の辺りとの高低差は35メートルもあります。
この薬師池公園は日本の歴史公園100選にも選ばれていますが、国指定重要文化財や都指定有形文化財の建物があるのでそちらも見てみます。
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薬師池公園は1982年には「新東京百景」に選ばれ、さらに1998年には「東京都指定名勝」に指定されました。
その上2007年には「日本の歴史公園100選」に選定されたという町田市を代表する公園です。
↑都道18号府中町田線(鎌倉街道)がこのすぐ左側を通っているのですが、ここは薬師池という池があるように周囲より低い標高66メートルほどになるため静かです。
道路が10メートルほど高い位置にあるため、幹線道路沿いであることを感じさせない落ち着いた雰囲気です。
↑池の南から北を見ると、東も西も土地が高くなっていることが分かります。
しかし、ここは自然の池ではなく、江戸時代に人工的に造られたものだそうです。
↑二連の太鼓橋が架かっています。
寛永年間(1624〜43)に、ここを農業用水池にするために耕地を潰して溜井にしました。
長さ70間(126メートル)、横28間(50.4メートル)もの大きさで、十数年間かけて築いたそうです。
↑逆に北から南を見ていますが、東と南と西を尾根に囲まれたような地形なので、自然にも水は溜まりそうなところです。
案内板をみると、「大滝」があるというので見に行きました。
↑水の音がするので近づいてみると、「えっこれが大滝?」と思うような小さい滝でした。
位置としては池の西側の斜面の途中になります。
水量は豊富なようで、水は高いところから低いところへ勢いよく流れていきますが、この薬師池にも苦労の歴史があるそうです。
国道411号線滝山街道沿いの小高い丘の上に御嶽神社があるというので行って来ました。
八王子市丹木町の滝山城跡のすぐ近くなのですが、登り口が分かりませんでした。
Googleマップにも載っていませんでしたが、南側からのルートの見当をつけて行ってみました。
↑急な上り石段があります。
村社御嶽神社と書かれています。
↑途中で後ろを振り返っても急坂であることが分かります。
やがて南東方面からのもう一つの参道につきます。
ここを左に行くと、御嶽神社本殿です。
その歴史は古く、往古蔵王権現社と称し高月村にあり、今の滝山城跡山頂に蔵王堂が鎮座していたと言います。
社の立は推古天皇代(595年)といいますから、滝山城があるはずもない頃の話です。
藤原時代の康平2年(1059年)源義家が社を再興し社殿を新築したといいます。
その後、現地への移転が行われることになります。
JR中央線の豊田駅近くにある日野市立中央図書館のすぐ裏は木々があり林となっています。
そして、そこは崖となっています。
図書館建物の裏に行けるようになっており、そこには八幡神社があります。
その図書館の木々の生い茂った裏庭のようなところから南側は、崖になっています。
日野市には数多くの湧水がありますが、ここもその一つがあります。
「中央図書館下湧水」といい、毎秒17リットルの水が湧き出ているそうです。
この左からも既に水が流れて来ていますが、すぐ先のコンクリートと地面の隙間から流れて来ています。
崖の林にしみ込んだ水が大量にあるのでしょう。
図書館下湧水は、東京都環境局による東京の名湧水57選の一つに入っています。
この南側から図書館に向かうには、鳥居をくぐって行くという不思議な風景となっています。
イオンモール多摩平の森のすぐ近くには、まさに森があります。
その森のある多摩平第6公園は崖の上にあり、南東方向に向けて下の方が見渡せます。
ここは黒川段丘崖となっています。
高い所と低い所では10メートル近くの高低差があります。
この周辺の敷地は公園や東豊田緑地保全地域として、崖の緑が残されています。
↑それらを巡る黒川段丘崖散策コースの案内板もあります。
ここには豊富な湧水があるといいますから見に行ってみます。
↑坂を下りると、まさにジャージャーという音を立てて水が斜面から水路に流れ込んでいます。
この斜面には立ち入りできなくなっています。
崖の斜面の部分が開発されずに保存されているため、至るところから水が湧くようです。
少し上流側の清水谷公園には池があり、子育て中のカルガモの親子がいます。
↑左側にヒナ鳥が5羽ほど円形に固まっています。
みんながやさしく見守っているため、人がすぐ近くにいても平気でいます。
美談ではありますが、危機管理上はちょっと不安が残ります。
下流側は黒川清流公園となっています。
平成31年4月23日に天皇皇后両陛下は、昭和天皇陵に参拝して4月30日に譲位することを報告するといいます。
その直前に昭和天皇陵のある武蔵陵墓地に行ってきました。
国道20号線の高尾駅少し手前の北側へ自転車ではなく車で行きました。
↑ここには4つの御陵があります。
西の奥から多摩陵、多摩東陵、武蔵野陵、武蔵野東陵となります。
↑西に向けて、北山杉の間の参道を進みますが、カーブとなっていて先が見えないことが不思議なところへ行くという感覚にさせてくれます。
昭和天皇陵へは途中の新参道を北に向かった正面です。
鳥居の向こうに武蔵野陵、昭和天皇陵があります。
「むさしののみささぎ」と読みます。
古くないから「古墳」とは言わないのでしょうが、上円下方墳となっています。
昭和天皇武蔵野陵と記されています。
広そうですが、帰って調べてみたら、2500平方メートルの面積があるそうです。
↑その右には香淳皇后武蔵野東陵があります。
こちらも上円下方墳となっていますが、少し小ぶりのようです。
面積は1800平方メートルということです。
警備のための詰所らしき建物も趣きがあります。
多摩ニュータウンの中でも多摩市諏訪や永山は、一番最初の昭和40年代に開発された地区です。
京王線や小田急線の永山駅ができる前に入居が開始されたので、当時は陸の孤島であり、バスで通勤通学するしかなく大変だったといいます。
↑京王永山駅のすぐ北側の多摩消防署交差点から北東の諏訪1丁目方向を見ています。
現在は消防署は建替工事が行われているようで、ここにありません。
多摩市になる前の多摩町・多摩村の小字馬引沢から、多摩ニュータウンのための区画整理により諏訪などが分離されました。
↑諏訪越通りを登り、坂を下ると多摩馬引沢交差点です。
左右に通る都道18号府中町田線の向こうは、現在も馬引沢という地名です。
2020年8月9日の東京オリンピックにおける自転車競技ロードレースのコースは、この奥の馬引沢北通りから来て、この都道を右へと進みます。
こんなところを!とびっくりですが、本当なのです。
↑ところで、馬引沢という名の川は現在もあり、馬引沢ではなく諏訪1丁目を流れています。
諏訪神社の前なのですが、上流方面は急な斜面となっています。
↑この奥は先程通った諏訪越通りの下を潜る暗渠となっているようです。
沖ノ谷戸から流れているようですが見つけられませんでしたので、諏訪神社を見てみます。
この辺りの諏訪という地名の由来は、この諏訪神社なのでしょう。
↑鳥居にも諏訪神社とだけ書かれていましたが、検索してみると連光寺諏訪神社がヒットしました。
なぜ連光寺なのかを調べてみました。
多摩ニュータウンは総面積3000ヘクタールという広大な場所ですから、開発により1000カ所もの遺跡があったそうです。
その中の多摩センター駅近くの縄文時代の集落跡は、東京都埋蔵文化財センターとなっています。
↑そのうち南側の半分は現状のまま盛り土をして保存されています。
縄文時代前期の住居跡2軒、中期の住居跡5軒のほか、落とし穴なども発掘されたそうです。
盛り土の上は遺跡庭園「縄文の村」となっています。
↑縄文時代前期の竪穴住居です。
発掘調査当時の位置に復元されたといい、床は長軸7m、短軸4.5mの長方形で、面積約30平方メートルとかなり広く、5~6人くらいは十分に住めたようです。
6500年前のものですが、中の様子です。
焦げ臭いようなにおいがしますが、火焚きを各住居で順番にしているからのようです。
住居の棟の上には、屋根が浮き上がらないように土で押さえ、さらに草が植えられているそうです。
↑縄文時代中期後半の住居跡で、こちらは4500~5000年前(両方の表示がありました)のものです。
敷地内に現在ある高圧鉄塔の東側に発見された住居をモデルに復元した住居です。
壁沿いの5本の柱で屋根が支えられていて、床は長径5.3m、短径4.8mの楕円形で、面積約15平方メートルと縄文時代中期の標準的な大きさだそうです。
周囲は「縄文の森」となっています。
前回見てきた鶴川街道の都県境にある真光寺公園の北西端から木々の鬱蒼とした尾根道を歩いてみました。
この尾根道が東京都町田市と神奈川県川崎市の境界となっています。
↑右方つまり鶴川街道とは反対に北東に向けて歩き始めると、すぐに尾根は東へそして南東へと向きが変わります。
また、左側の斜面は緩やかで木々ではなく畑が広がり、明るくなりました。
↑この辺りでは北東に向けて遠くを見渡すことができます。
手前に小田急多摩線の黒川駅周辺の高架が、その先には京王相模原線の高架が見えます。
若葉台周辺の高層マンションも見ることができます。
↑すぐにまた木々の中に入っていきます。
耳元で聞き慣れない超低音の羽音が聞こえました。
おそらくかなり大きな虫と想像されますので、スズメバチではないかと急いで歩きます。
やがて南に向けて真っ直ぐ進む道と、左方つまり東に向かう道に分かれますので、東に進みました。
戻ってから地図を見て確認してわかったのですが、南に向かう道は真光寺公園に沿っていたようです。
Yahoo!マップの地形図で見ると、どちらも尾根道のようです。
↑東ルートでは、やがて今度は右に向けて視界が広がります。
建物の壁にはCanonと書かれていました。
そして下り階段がありました。
↑振り返ってみると、黒川宮添特別緑地保全地区という表示板がありました。
こうして緑が残されているのは素晴らしいことです。
これで終わりかとも思いましたが、この先にも道は繋がっていました。