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09西多摩

2024年4月 7日 (日)

水面に浮かんでいるようだという浮島神社と他県に迷惑かけないための霞川調節池

霞川という一級河川が東京都に流れていますが、都内であまり知名度は高くないでしょう。

青梅市に流れており、埼玉県に入り入間川に流れ込む川です。

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そんな霞川沿いに浮島神社があります。

川の左岸で青梅市今井にあり、山根通りに面して一の鳥居があり、参道を入った正面が霞川です。

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二の鳥居から川に沿うように直角に参道は曲がり、正面が社殿です。

↑傍には少し高くなった位置に東屋があり、休憩したり霞川を眺めたりできるようになっています。

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浮島神社は創建年次は不詳ですが、安土桃山時代の文禄3年(1594)に再建されたという記録が残っています。

江戸時代の新編武蔵国風土記稿には浮嶋天満宮として載っています。

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その記載に、霞川が氾濫した際も沈まず水面に浮かんだ島のようだということで呼ばれたとあります。

↑そのことからか、社殿裏側には小さな池があり、弁天様と思われる祠がありました。

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2024年1月21日 (日)

多摩川沿いの新春飾りがまだあった阿蘇神社の古くからの由緒

多摩川サイクリングロードの上流端ともいえる羽村取水堰のあたりのことです。

左岸側をさらに少し進むと鳥居があります。

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↑阿蘇神社があり、都重宝とも書かれています。

参道とはいっても林多摩川沿いなのに林の中の古道のようないい雰囲気のところを300メートルほど進みます。

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↑用水路を渡り、多摩川の流れが再び見えたところに阿蘇神社入り口があります。

鳥居があり石段を少し登った先に本殿が見えます。

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阿蘇神社は以前は阿蘇大明神、阿蘇宮といい、創建は推古天皇9年(601)と伝えられています。

平安時代の承平3年(933)には平将門が社殿を造営し、天慶3年(940)には藤原秀郷が社殿を造営したといいます。

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藤原秀郷といえば、新皇を称した平将門を討った武将です。

両者とも阿蘇神社を余程重視したのでしょう。

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藤原秀郷がお手植えしたシイが本殿左にあり、東京都指定天然記念物になっています。

手前の木だとばかり思っていたのですが、奥だということで、残念ながらアップで撮影した写真はありません。

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2023年6月 4日 (日)

昭和用水の流れからの原水補給ポンプ所と龍津寺の湧水の流れ

前回、多摩川からのかつて九ヶ村用水、そして昭和用水の取水堰を見てきましたが、その昭和用水を少し辿ってみました。

まずは、多摩川に対して垂直方向に左岸の河川敷内を流れていきます。

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土手の下を通ったところからは多摩川と並行に沿う方向に流れていきます。

周囲は木々が生い茂った林のようになっていますが、用水沿いに狭い道があります。

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すぐに左手は啓明学園のグラウンドになります。

350メートル程で一般道に出て視界も広がります。

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右には廃校となった昭島市の拝島第四小学校校舎があります。

左には東京都水道局の施設があります。

昭和用水から取水されて勢いよく水が流れ込んでいました。

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正面入口の看板を見てみると、拝島原水補給ポンプ所となっていました。

何なのかと思い戻って調べてみると、昭和用水堰からの水を玉川上水に補給するための施設のようです。

その裏側にある、左に登っている道の下に導水管があって、水をポンプで汲み上げて北に流れている玉川上水に補給するため送っているようです。

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水道局の資料によると、昭和用水が灌漑用水として必要となる期間を除いた、10月から4月だけに補給は限定されています。

また、原水というのは、飲む水になる水道水へ処理する前の水ということのようです。

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2023年5月28日 (日)

多摩川にある九ヶ村用水取水口と昭和用水堰とその名の由来

多摩川左岸を上流から行くと、福生市熊川から昭島市拝島町との境界を越した辺りに、現在は使われていない樋管があります。

九ヶ村用水樋管で九ヶ村用水の取水口です。

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九ヶ村とは、現在は昭島市になっている拝島、田中、大神、宮沢、中神、築地、福島、郷地の各村と立川市になっている柴崎村のことです。 用水の樋管は明治44年(1911)に築造されたものです。

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九ヶ村用水は室町時代に用水路の原形が作られていました。

江戸時代の延宝元年〜8年(1673〜80)には完成したと言われています。

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↑昭和の初めには、多摩川の水量が減って取水が困難となったことから昭和用水堰が造られました。

昭和8年(1933)のことで、こちらは200メートルほど下流になり、手前側が取水口になります。

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水量が減ったといいますが、村山貯水池、山口貯水池である多摩湖、狭山湖が完成した時期であり、このために上流での取水量が増えたのでしょう。

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↑堰が造られたのは秋川と合流するところで、奥から流れてくるのが秋川で右からの流れが多摩川です。

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2023年5月21日 (日)

木偏に山で杣という字の杣保葛神社と本殿と建武年間の青石塔婆

青梅市藤橋に杣保葛神社があります。

東京都道埼玉県道63号青梅入間線沿いで霞川の近くです。

参道の左には消防団詰め所が、右には地区公民館か自治会館らしき建物があり、古くからの地域との繋がりを感じさせる神社です。

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神社の名前を何気なく書きましたが、実は漢字変換するための入力の際、読みに困ってしまいました。

木偏に山でソマと読み、杣とは樹木を植えて材木を取る山のことだそうです。

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杣保葛はソマホカズラと読みます。 不思議な名前だと思いましたが、明治43年(1910)に杣保神社と葛神社が合社されたものです。

覆殿からは本殿を見ることができます。

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杣保神社は元亀・天正年間(1570〜92)の藤橋城主である平山越前守重吉の域内鎮護のため愛宕社として祀られたものといわれます。

葛神社は牛頭天王社として愛宕社に祀られていましたが、平山氏の再建といわれています。

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↑立派な彫り物も見ることができます。

大正年間に拝殿を新築し、同時に本殿の覆舎を造ったといいますから、本殿は明治43年に合社した時のものでしょうか。

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江戸時代の新編武蔵国風土記稿によると、牛頭天王社は旧藤橋村の鎮守社であり、どちらも宝泉寺の持であったといいます。

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2022年8月28日 (日)

のびる沢の先にある須賀神社奥の院と六道山公園展望台からの眺め

2年前に武蔵村山市の須賀神社に行きましたが、そこは以前は遥拝所であり社殿は別のところにあったといいます。

丘山の上にあったという場所にいつか行きたいと思っていたところでした。

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↑都立野山北六道山公園にある里山民家の東側から北に向かい登っていくと鳥居があります。

この公園は狭山丘陵にいくつも深い谷戸が入り込んでいます。

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↑のびる沢に沿って登って来ましたが、振り返って見ると谷戸となっているのが分かります。

さらに石段の上に須賀神社奥の院があります。

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麓の須賀神社に行った時にも書きましたように、社殿は江戸時代の寛永10年(1663)建立されたといいます。

それは丘山の上にあり、麓に寛政2年(1790)遙拝所が創立されました。

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その遥拝所を昭和51年(1976)に本殿としたのが現在の須賀神社になります。

東京都神社庁のホームページによると、元々は2000メートル余隔てた丘山にあったということです。

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↑それが須賀神社奥の院という名から、ここかと思われます。

社殿横の案内板には、麓の須賀神社の縁結びの木のことが写真付きでありますから、両社は関係社であることは確かです。

しかし、改めて公園のパンフを見ながら直線距離を測ってみても、2000メートルの半分以下しか離れていないのです。

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2022年5月29日 (日)

関東富士見百景の一つであり八王子八十八景でもある栃谷戸公園と横を通る八王子南バイパス

八王子市みなみ野シティに栃谷戸公園があります。

というか、コロナで臨時休業している日野自動車21世紀センターのすぐ北側近くにあります。

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起伏の多い土地を開発したわけで、名前の通り、ここは谷戸だったところを公園にしたようです。

南側が高くなっており、北に向かって低くなっていきます。

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↑ちょっと見る角度が変わるだけで表情は変わるようで、先程見えた橋は見えませんが見えなかった階段が整備されています。

自然のままというより人工的に段々畑や棚田を作った感じです。

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↑低いところには調整池があり、カメがのんびり甲羅干ししていました。

八王子のこの辺りになると、この池のある低いところでも標高145メートル程です。

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↑北側がまた高くなっており、そこから振り返ると先程いた向こう側には展望台があります。

栃谷戸公園は関東の富士見百景にもなっているようですから後ほど行ってみましょう。

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↑まずはこちら北側には公園に沿って魅力的な道があります。

この道のさらに北西側に沿っては、結構幅の広い道路が通っていて計画幅はさらに広そうで、不思議なことに相武国道事務所名義の看板がありました。

次に展望台の方に行ってみました。

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2022年4月10日 (日)

海まで遠い昭島の多摩川沿いで見つかったクジラの奇跡と八高線橋梁や堰

多摩川左岸の多摩大橋と拝島橋の間には「くじら運動公園」があります。

近所によくある児童遊園のような「くじら」のオブジェがあるからそう呼ばれているのではなく、ここには立派な由緒があります。

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ここは東京都昭島市で東京湾までは約40キロあり、標高も海抜100メートルほどの場所ですが、200万年前は海の中でした。

昭和36年(1961)にこの辺りでクジラの全骨格の化石が発見されたのです。

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↑多摩川河川敷JR八高線多摩川鉄橋の11番橋脚の下流約36メートルの地点だといいます。

もう少し左かもしれないので、帰り掛けに撮ったこちらの方かもしれません。

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これまで長い間、ヒゲクジラの仲間で現存のコククジラの一種と考えられていました。

それが平成30年に、これまで世界で発見されたことのないヒゲクジラの新種だということが発表されました。

学名はラテン語でエスクリクティウス アキシマエンシス、和名はアキシマクジラと発表されたのです。

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こうした化石の発見がここだけであったのは、いくつもの奇跡によるものだそうです。

骨が比較的早く堆積物に埋まり破壊されずに化石として保存されたこと、約200万年もの間、地殻変動や地層の高い温度変化や圧力の影響がなかったこと、化石の一部が露出した一瞬のタイミングに発見されたことなどです。

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露出後に大雨が降れば化石は川に流されていたといいます。

↑この説明板と並びの多摩川土手沿いにはサクラが綺麗に咲いていますが、鉄道車輪も置かれています。

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2021年10月24日 (日)

豊田の総鎮守という若宮神社と豊田南地区の区画整理により出来つつある水路

日野市の豊田駅周辺は浅川の河岸段丘によるものであろう高低差があり、湧水に恵まれたところです。

そのJR中央線北側の湧水はかつて見に行きましたが、線路南側にも高低差はあります。

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↑そこには石段があり若宮神社があります。

日野市ではいくつかの土地区画整理事業が行われており、ここ豊田南地区の87.1ヘクタールでも施行中です。

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↑石段の上まで行って振り返ると遠くまで見渡せますが、ちょうど石段の登り始めの辺りに、都市計画道路である日野3・4・15号線が通ることになっています。

区画整理の事業期間は昭和61年度から令和10年度までの予定ですから、かなりの長期に及んでいますし、さらに期間は延伸されることでしょう。

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↑一旦下りて少し南東に行くと、北が高くなる地形の高低差のためにある東豊田陸橋の手前のところは、道路と水路とビニールハウスというありふれた風景となっています。

しかし、これも区画整理事業をしているところのようです。

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↑日野市HPを見ると、豊田南地区の令和元年度から5年度までの新5か年計画があり、右上に書かれていますが令和2年度としてはこの区画道路と湧水路の整備が行われることとなっています。

畑のところにあった説明幕があり書かれていますから、あれが整備後の姿なのでしょう。

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それとも整備が遅れているのか分かりません。

因みに、この手前の道路は3年度計画で整備する予定であるところですが、こんな感じです。

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2021年10月10日 (日)

埼玉県元狭山村の四神社を合祀しているのに東京都にある元狭山神社

かつて東京都西多摩郡瑞穂町では駒形富士山探しをしたことがありました。

狭山神社があったりもしましたが、同じ瑞穂町には元狭山神社もあります。

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埼玉県入間郡元狭山村の四つの地区にあった四社を村の中央に移転合祀して、大正7年(1918)社号を元狭山神社と改めました。

とはいうものの、ここは東京都西多摩郡瑞穂町です。

明治22年(1889)町村制の施行の際、二本木村、高根村、駒形富士山村、富士山栗原新田が合併して埼玉県入間郡元狭山村となりました。

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↑参道右側の社務所はちょっと気になる建物です。

調べてみたら、明治27年(1894)落成の元狭山尋常小学校の旧校舎を移築したもので、現在の瑞穂町内における近代和風建築(日本在来工法でつくられた洋風建築)の典型だということです。

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↑参道左側の石燈籠も立派で、奥に見える通常サイズと比べると遠近感を差し引いても巨大なのがわかります。

話は戦後になり、昭和28年(1953)の市町村合併促進法により、翌年には元狭山村議会が東京都西多摩郡瑞穂町に編入することを決議しました。

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しかし、埼玉県は反対して埼玉県入間郡武蔵町との合併を要求して、ここの住民の意見も割れたようです。

結局、昭和33年(1958)に元狭山村のうち南のかなりの部分は東京都となり、北の一部は埼玉県に分かれてしまうこととなりました。

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元狭山村の四つの村落にあった四社は、駒形村にあった駒形神社、高根村にあった高根神社、駒形富士山村にあった八雲神社、富士山栗原新田にあった子安神社です。

本殿の後ろは林となっています。

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