不老川は、主に埼玉県内を入間市、所沢市、狭山市を通り、川越市で新河岸川に合流する河川です。
埼玉県道179号所沢青梅線の入間市宮寺の上流浄化施設のある辺りが、正式には上流端になります。
しかし、いつものパターンですが、ここからさらに上流にも川の流れがあります。
そもそも上流端に浄化施設が必要なわけありません。
↑東京都瑞穂町の上流方向を見ていますが、写真では混乱を招くことに矢印があり埼玉県と書かれています。
これは道路が東京都と埼玉県の境界となっており、ここから手前側の道路を埼玉県が管理する補修境界を示したものです。
↑奥に見えていたのは、東京都瑞穂町の元狭山雨水調整池です。
都内の水で埼玉県に水害の迷惑をかけないようにということでしょう。
↑南へ上流を目指して進むと不老川の流れはこの少し先、国道16号線の瑞穂第三小入口交差点すぐ近くで暗渠となってしまいます。
しかし、さらに南に行くと、学校通りから南方に、いかにも下に水路がありそうな道があります。
すこを南に進むと、高根通りのところから再び水路は姿を現します。
これはGoogle マップでも描かれており、少し先で西へと向きを変えます。
wikiによると狭山池の伏流水が水源と書かれていましたが、実際に流れを辿ってみると、こちらの流れが本命ではないでしょうか。
先を急ぎます。
前回は、青梅市の霞川の上流端から西へ鉄道公園や永山公園方向に向かいました。
風の子太陽の子広場内の池やその奥にある山々の谷戸が、霞川の水源となっているようでした。
↑しかし、調べてみると、この「霞川上流端」との標識のある交通公園入口交差点から、川の水源は北の方角にあるという説もあるようです。
つまり、都道28号青梅飯能線成木街道の北の方向になりますから、霞川はここで直角に曲がっていることになります。
↑北に向かい進んでいくと、道路下にあり見られなかった河の流れが、根ケ布交差点で都道から分かれる天寧寺坂通り沿いにありました。
さらに進むと、その天寧寺の総門の横を参道に沿って流れてくる水流があります。
元々この地には平将門創建と伝えられる真言宗高峯寺があったといいます。
現在ここにある高峰山天寧寺は、領主でありすぐ近くの勝沼城主であった三田氏が文亀年間(1501〜1504年)に創建した寺院です。
この天寧寺の奥に霞川の水源の「霞池」があるというのです。
↑総門から山道を進むと、山門は左にありますから、この川を渡ることとなります。
鐘楼にある大英元年(1521)に三田政定が寄進した銅鐘には、三田氏が平将門の後裔と記されています。
山門は楼門形式の立派なものです。
江戸時代の宝暦10年(1760)のものです。
天寧寺境域は東京都史跡に指定されているといいますから、水源の池だけでなく、寺院内の建築物にも期待が膨らみます。
東京都青梅市から埼玉県入間市を通り、入間川に合流する霞川があります。
青梅市東青梅駅近くで都道28号青梅飯能線成木街道が南北方向に通っています。
その鉄道公園入口交差点にある柿沢橋の所が霞川の上流端と表示されています。
しかし、他の川と同様に東京都の河川管理上での上流端なだけであって、実際にはここが水源ではありません。
道路を挟んで反対側に少し西へ行くと、すぐに流れを見つけることができます。
永山公園通りという道で、鉄道公園へ向かう道ともなっています。
この道路の左側つまり南側は斜面となっています。
↑やがて、永山公園通りはその斜面を上って行くので、下の川に沿った道をいきます。
上流に向けて西へしばらく進むと、風の子太陽の子広場入口という看板のところで、南西からの流れが合流しています。
↓左奥からの流れと右奥からの流れがあるということです。
まず、右奥つまり北東に向かいますと、すぐに道路は行き止まりとなります。
青梅市のよる野生動物に注意という表示があります。
絵にはシカ、イノシシ、ヘビ、ハチが描かれています。
ちょっと怖がりながら少し進みます。
青梅街道は江戸時代に整備された五街道の一つでもなく、距離も短い割には有名な主要街道となっています。
改めて考えてみれば不思議な話です。
何で東京というか江戸と青梅を結んだ青梅街道がこうした位置付けになったかを知ることができました。
青梅市の成木地区の都道193号線沿いの小高い山のところに、いい感じの神社がありました。
成木熊野神社は小田原北条氏に属していた木崎美作が、元亀2年(1571年)に紀州熊野権現をこの地に勧請したものと伝えられています。
↑鳥居から拝殿までには184段の石段があり、天明元年(1781年)に石灰石を切って造られたものです。
白土つまり消石灰は城の漆喰壁の材料として用いられ、ここ成木は良質なものの生産地でした。
↑鳥居の左側には旧鳥居が保存されており、これは木崎平七が発願し、江戸や村々の石灰窯主などの寄進により文政2年(1819年)に建立されたものです。
石造扁額とともに成木道(石灰の道)との関連を示しているといいます。
↑拝殿と覆屋は大正6年(1917年)に建立されたものです。
戦国時代には小田原北条氏の八王子城跡からも漆喰が見つかったといいます。
江戸時代になると、徳川家も江戸城の壁塗りにこの成木産の石灰を利用しました。
御用石灰として江戸まで運搬する道が成木道、成木街道で、それが後の青梅街道の元となります。
↑絵馬殿は文化5年(1808年)に建立されたもので、旧本殿の覆屋でした。
覆屋建て替えの際に絵馬殿として流用したそうです。
これらの成木熊野神社境域が東京都指定史跡となっています。
現在の覆屋の隙間からは本殿を見ることができます。
この前来た「さやま花多来里の郷」は東京都瑞穂町にありました。
あの時「さやま」という名前についてはあまり触れませんでしたが、埼玉県狭山市からはかなり離れています。
↑花多来里の郷の隣りは、「狭山池緑地」となっています。
この近くには2年ほど前に来た、残堀川の源泉の一つである狭山池があります。
考えてみれば、ここは狭山湖のすぐ西側であり、その狭山湖は所沢市、一部が入間市です。
↑この緑地は小さな山のようになっていて、そこには「狭山神社」があります。
狭山市という名前の印象が強くあるため、東京都内の瑞穂町にある「狭山」に違和感を感じていました。
しかし、狭山丘陵全体を考えれば、ここに「狭山」という名前が付いていても不思議ではありません。
↑コンクリート造の鳥居を多く見る中、木造の鳥居が美しいです。
急な階段を登って行った先に狭山神社はあります。
かつては、箱根権現や三社大権現といわれ、祭神の箱根大神ですが、永承年間(1046~1053年)源義家の奥州征伐の折、筥の池(狭山池)辺に陣営、箱根権現の霊夢に感じ、当地に勧請、凱旋の時に奉賽したといいます。
↑階段を登ると、幕末と明治の火災の後、昭和26年に再建された拝殿です
JR八高線の駅名であり、ここの地名でもある「箱根ヶ崎」は箱根権現から来ているのでしょうか。
祭神の木花咲耶姫命他二柱は源頼朝の関東五百社勧請の一社、主祭神の伊邪那岐、伊邪那美二神と泉津事解男命はそれ以前の奉斎だそうです。
境内には、勝海舟による題額の碑もあるといいます。
さやま花多来里の郷というところがあります。
「さやま」と言えば、狭山湖や狭山茶で有名で、狭山市は埼玉県にあります。
「花多来里」と書いてあっても、何て読むかは分かりません。
音読みしてみると、ひょっとして「カタクリ」かなとも思えます。
郷と書いて「さと」と読むのはよくあることですが、その前にも里という字があるので、やはり謎です。
↑実はここは狭山市ではなく、東京都瑞穂町にある施設です。
「かたくりのさと」と読み、都内では珍しい20万株以上のカタクリの群生地ということです。
↑駐車場も整備されており、しかも緑化駐車場となっています。
都内随一のカタクリの群生地とパンフには書かれています。
↑ほぼ全面がカタクリ群生地ですが、通年開園して春以外にも花が見られるということなので、期待して見て回りました。
カタクリを見るために春のみ開園しているところは数多くありますが、ここは通年開園しています。
↑園路の右側が斜面になっていて、ここがカタクリ群生地となっているようです。
ぽつんとユリの花が咲いていました。
↑宮崎テラスという名の鑑賞デッキがあります。
春になると約3000平方メートルの斜面一面に見事なカタクリが咲き誇るそうです。
カタクリがこの季節に咲いていないのは仕方ないですが、先に進んでみましょう。