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08北多摩南部

2021年2月 7日 (日)

国立市ではなく府中市にある谷保天満宮発祥の地と用水路と大山道

受験のシーズンとなりましたが、学問の神様という菅原道真を祀った天神様に参拝する人は多くいます。

東京では湯島天満宮(湯島天神)、亀戸天神社、次に谷保天満宮が有名でしょうか。

府中市日新町にさほど広くは無いものの、赤い旗や鳥居の目立つ神社があります。

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日新稲荷神社ですが、ここには気になる碑がありました。

キレイに磨かれた石なので、光が反射して見づらいですが、「谷保天満宮発祥之地」と書かれています。

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菅原道真は昌泰4年(901)太宰府に左遷された際、同時に4人の子供達も左遷や流罪となり、 第三子の菅原道武は 武蔵国多摩郡に流されました。

父道真が2年後に太宰府で没し、延喜3年に道武は父の像を祀ったのが 谷保天満宮の創建とされています。

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道武の子孫は津戸の姓を名乗り,鎌倉時代に源頼朝に仕えていた津戸三郎為守が、治承5年・養和元年(1181)にある神社を国立市谷保に遷したといいます。

日新稲荷神社だけに書かれているのでなく、谷保天満宮公式HPにありますから、ここが発祥の地のようです。

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府中市と国立市の市境を跨いで移転していますが、当時はそんな市はありませんから当然なのでしょう。

また、谷保天満宮はヤホではなくヤボと読むことをはじめて知りました。

ところで、最初の写真の左端には蓋掛けされた水路があります。

ちょっと100メートルほど上流の都道20号府中相模原線(府中四谷橋への道)沿いを見てみました。

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2021年1月31日 (日)

立川市緑町の不思議な神社と高松町にある熊野神社の戦争をめぐる繋がり

立川駅北口には立川基地跡の広大な敷地があるため、数多くの政府系機関や近年ではIKEAなどの商業施設も建てられています。

その緑町の「自治大学校国立国語研究所」バス停の前には、ちょっと不思議な神社らしきところがあります。

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フェンスに囲まれており、社号標などはありませんが、「熊野神社」という名で関係者以外立ち入り禁止と書かれています。

唯一ともいえる倉庫のような建物があります。

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奥には熊野神社の鳥居と祠のみあります。

さらに奥の方に見えているのは、多摩都市モノレールの高松駅です。

調べてみると、500メートルほど東にある熊野神社が元々あったところのようです。

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↑それは、高松バイパス沿いの高松町にある熊野神社で、立川熊野神社とも言われています。

武蔵野によくあるように、この辺りは江戸時代の享保年間に柴崎新田として開発され、当初は7軒しか家がなく、七軒家と言われていました。

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この新田の鎮守として、先程のところに享保11年(1726)創建された神社です。

↑当時は考えもしなかったでしょうが、手水舎ではコロナ感染予防策で柄杓はなく水が流しっぱなしにされています。

そもそも、神社がどうして移転したかも気になるところです。

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2021年1月17日 (日)

藤原四家のうち式家の神社である上宮大澤神社で平安時代の歴史上の人物を復習

新小金井街道の小金井市貫井南町に「上宮大澤神社入口」という標識がありました。

大澤(大沢)と言えば、もっと東にある三鷹市の地名なので、興味があり立ち寄ってみました。

境内と道路と駐車場の境がよくわかりませんし、中には住宅もあるようですが、全体が神社の敷地なのでしょうか。

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狭いながらも美しい竹林に立つ神社案内板によると、創建は平安時代である天慶年間(938〜945)といいます。

藤原外記壽治(げきひさはる)が、大澤の池の上のこの地が山紫水明のいいところなので、大澤氏を名乗るとともに神社を創始したといいます。

大化の新で知られる中臣鎌足が藤原姓を賜わり藤原氏の祖となっていますが、その子孫だといいます。

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↑7名の祭神が記載されていましたが、古事記や日本書紀に登場する神々ではない、歴史上実在の人物もいるようなのでそれぞれを調べてみました。

まず①「天児屋根命」は古事記・日本書紀にも載っている神になりますが、中臣氏・藤原氏の太祖神です。

②「藤御食子命(中臣氏)」は中臣御食子のことで鎌足の父になります。

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↑鳥居から本殿までの距離は短く、右には社務所があります。

寒い日々なので、午後なのに手水鉢の水は一部凍っていました。

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続いて、③ 「藤宇合命(藤原式家)」は藤原宇合(うまかい)のことです。

平安時代に非常に栄華を極める藤原氏の礎を築いたと言えるのは、奈良時代の藤原不比等です。

不比等は中臣鎌足の子で、その4人の子は北家、南家、京家、式家の藤原四家を形成します。

うち式家の祖が藤原宇合です。

本殿の前まで行くと参拝者を感知して雅楽が流れます。

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2020年1月12日 (日)

矢川緑地の湧水となぜか擁壁上にある道路とその向こうの矢川弁財天の狛蛇

立川市羽衣町の南端の国立市との境界に矢川緑地があります。

立川段丘のところで、自然の残る約2.1ヘクタールもの広さのある緑地です。

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東京都によって、矢川緑地保全地域に指定されています。

南側は湿生植物保全地域として湿地帯となっています。

保全のために木道が整備されています。

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冬なので、ちょっと殺風景ですが、野鳥はいました。

緑地の中央には矢川が流れています。

上流には、みのわ通りが擁壁上の高い位置を通っており、下の方にある眼鏡橋から矢川は流れてきます。

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立川段丘の擁壁かと思いましたが、違うようなので、これは後ほど調べることとなりました。

矢川は立川市の東南部から国立市の西南部を流下して、青柳段丘崖先で谷保用水に合流する延長約1.3キロメートルの短い川です。

JR南武線の矢川駅の駅名はここからきています。

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↑川のすぐ北側には湧水が見られます。

手前の部分から水が湧き出ています。

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↑同じ池ですが、別の場所からも水が湧き出ているのがわかります。

この矢川緑地も東京の名湧水57選になっています。

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↑この池からの水の流れを辿って行きましたが、残念ながら途中で途切れていました。

緑地全体の矢川の北側部分は樹林地となっており、林床保護区域、サンクチュアリとなっています。

それでは、先程の擁壁の件です。

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2019年11月24日 (日)

国分寺市都市計画道路の熊野神社通りの未開通部分と江戸時代の土木遺産と熊野神社

国分寺市内でJR中央線の500メートルほど北を、東西に走っている広めの道があります。

国分寺3・4・6号線という都市計画道路で、熊野神社通りと言われています。

国分寺駅周辺から東側や西国分寺駅というか府中街道から西側は完成しています。

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↑その府中街道の東側は拡幅できる用地は確保されていますが、歩行者以外は通り抜け出来なくなっています。

左にあるガストのさらに左の北側にある狭い道が、車にとっての「熊野神社通り」となっています。

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↑道路名になっている熊野神社がどこにあるのか知りませんでしたが、こんな所にありました。

府中街道から100メートルほど東です。

最初は、熊野神社が道路計画線の延長線上にあって、そのため道路が完成しないのかと思いきや、そうではないようです。

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↑計画線はここから少し北東に向いているようで、そこにも用地取得が完了したらしき空き地があります。

まあ左の旗竿は移設しなければいけないかもしれません。

見えている道が現道の狭い熊野神社通りです。

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↑参道の階段を上って振り返ってみると、確かにこの神社は道路計画線内の取得済みの敷地から外れているようです。

神社のさらに東の方を見てきたところ、ほとんど用地取得済みのようです。

西武国分寺線との交差部を立体交差にすることから時間がかかっているようです。

神社のすぐ北には、江戸時代明暦年間の遺構がありました。

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↑国分寺市重要史跡の恋ヶ窪村分水です。

玉川上水から明暦3年(1657年)分水された恋ヶ窪村分水は、昭和40年代までは水田への用水として使われていましたが、その後ほとんど暗渠化されました。

恋ヶ窪村分水は玉川上水の分水の中では比較的大規模で、堀幅は上部で6~9メートル、底部で50センチ、堀深は5メートルほどあります。

横の道路も重要な道だったようです。

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2019年4月29日 (月)

平成最後の週末に平成新道を走り、立川の金比羅山に行く

ここ数ヶ月間というもの、「平成最後の」というフレーズが何でもかんでもついていて、聞き飽きるほどです。

とはいうものの、本当に平成があと数日しかないとなると、なんか記念になるところに行っておきたくたくなります。

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「平成新道」という道路が立川にあります。

五日市街道、都道7号線杉並あきる野線の立川市幸町にある「古民家園入口」交差点から北に向かう市道です。

道路名表示板の右端が直角になっていることから、ここが起点部であることがわかります。

進むと、200メートル程でこんもりした森があり、平成新道は西へと向きを変えます。

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↑ここにあるのは川越道緑地です。

かつて川越に向かう道があったのでしょうか。

平成新道は西に向きを変えたので、五日市街道に並行して進むこととなります。

そして隣には、最初の交差点名にもあった古民家園があります。

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↑正しくは川越道緑地古民家園といいますが、園内に移築復元された、立川市指定文化財の小林家住宅などががあります。

小林家住宅は、江戸時代末期に建てられた茅葺の民家ですが、枯山水風に手入れされた庭の方が気に入りました。

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↑平成新道は時折S字カーブを描きながら西へと進みます。

先にある信号は幸福祉会館前という、幸せそうな名前のところです。

道は1キロメートル程の所で芋窪街道、都道43号立川東大和線と交差します。

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ここは多摩モノレールが通っているところです。

せっかくならモノレールが通った時をと思い、この写真を撮るため結構待ちました。

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↑モノレールの桁を潜ると、立川柏町団地沿いのツツジが綺麗です。

この平成新道は全長3キロメートル位しかありません。

都道55号所沢武蔵村山立川線との交差点が、平成新道の起点または終点となります。

道路名表示板の左端が直角になっていることからも、わかります。

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2019年1月 6日 (日)

国指定史跡の武蔵国府跡で見るVRとオリンピックロードレースの最初の10キロの意味

武蔵国の国府があったため、府中という地名となったということですが、その武蔵国府跡が国指定史跡になっているようなので見てきました。

大國魂神社のすぐ東側にあります。

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この区画のみが国府跡なわけではなく、南北約300メートル、東西約200メートルという現在の大國魂神社全域やその東側という広い範囲に国衙があったということで、「武蔵国衙跡地区」とされています。

展示施設があり、横には朱色の柱が複数本立っているのが特徴的です。

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この展示施設の側面はミラーガラスの映り込みを利用し、当時の建物の規模を表現しているそうです。

国府の中でも中枢施設として市内で最大規模の建物で、この朱色の柱は、発掘で見つかった当時の国衙の中枢にあった建物の柱の位置を示しています。

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大化の改新後、奈良時代初期から平安時代中期にかけて、各国を治める国司が政務を行う施設(国庁)が全国60数ヵ所に置かれていました。

その国庁が置かれた都市は国府と呼ばれ、政治、経済、文化の中心として栄えていました。

ややこしいですが、「国衙」は国府の中でも政務の中心となった施設である国庁を含む役所群(エリア)のことです。

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この施設内よりも、大國魂神社境内?かというところにある府中市「ふるさと府中歴史館」にある大型画面のCGによる「国府百景バーチャルツーリング」などで、詳しく知ることができます。

その建物は外壁工事中で分かりづらいですが、営業しており、2階には宮前図書館もあります。

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↑国史跡の指定範囲は、大國魂神社境内やその西側にも広げられ、2018年11月25日には「国史跡武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場」が、「国司館と家康御殿史跡広場」としてオープンしました。

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2018年2月 4日 (日)

小金井の地名の由来とも云われる国分寺崖線からの湧水がきれいな貫井神社

国分寺崖線沿いには湧水の湧き出るところが数多くありますが、その一つの貫井神社に行ってきました。

新小金井街道と東京経済大学の間の住宅地の中にあるため、周辺道路も狭く交通量が少ない静かなところです。

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↑本殿の前には神橋があり、両側にいわばひょうたん型に池があります。

天正18年(1590年)に創立され、水の神である水神様を貫井弁財天として祀ったとのことです。

本殿は宝永6年(1709年)に改築されたものが残されていましたが、昭和60年(1985年)焼失してしまったため新たに建て替えられたものです。

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↑右側の池ですが、ちょうど国分寺崖線の下に位置するためか水も豊富です。

小金井の地名は、「黄金に値する豊富な水が出る」ことから、黄金井(こがねい)が小金井になったと云われています。

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↑その対岸に渡り、先程いたところを振り返ると、神橋も美しい景観です。

また、中世には、現在の前原町南部が金井原(かないはら)と呼ばれており、あるいは、土地の支配者金井氏にちなむ地名という説もあり、よくあるパターンで地名の由来は諸説あるようです。

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↑神橋から今度は左側の池を見てみると、正面に水が勢いよく流れ込んでいるところがあります。

これは湧水でしょうから、水の出どころを確認しなくてはいけません

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↑本殿の左側のハケ(崖線)沿いに奥の方から水は流れてきます。

本殿を取り囲むようにハケとなっていますから、すぐに水源に到着です。

ここは水量が多く、これまで枯渇したことがないと小金井市公式サイトにありました。

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↑3つの岩の間から水が湧いています。

東京の名湧水57選にもなっているようです。

ただし、「平成2年2月8日水質検査の結果、飲料水として適しません」とあえて看板が立っていました。

ハケ上も見てみましょう。

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2018年1月28日 (日)

府中崖線に沿って駅のすぐ目の前と住宅地の真ん中にある御嶽塚と高倉塚古墳

JR南武線に新しく2009年(平成21年)に開業した西府駅のまさに目の前に古墳があり、しかも墳丘が残存しています。

南口から出ると、線路に沿って右側に公園があり、小さな小山があります。

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↑これが「御嶽塚古墳」で、古墳時代後期の6世紀から7世紀初めに築かれたもののようです。

直径約25mの墳丘とその周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。

府中市指定史跡となっています。

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↑この周囲では13の同時期に作られた古墳があったということで、御嶽塚古墳群と言われています。

この御嶽塚が中世になると屋敷を堀で囲む約200m四方の区画の中心に位置することとなり、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったとあります。

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↑塚上に祀られている石祠には「御嶽大権現」とあり、安政の年号も刻まれています。

御嶽信仰は、山岳信仰のひとつで、中世以降さかんになり江戸時代に各地に広まったといいます。

古墳があるとは言っても、子どもたちが普通に遊んでいる公園で、写真に写らないようにするのに苦労するほど数多くいました。

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そういえば、もう既に5年前のことですが、この少し北側の甲州街道沿いにある「武蔵府中熊野神社古墳」に行ったことを思い出しました。

あれは、きれいに復元されていて立ち入ることなどできませんでした。

同じ府中市内の古墳とはいえ大きな違いです。

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↑この辺りでは南武線は府中崖線のすぐ上を走っており、西府駅のすぐ南は急斜面となっていて、その下には市川が流れていたようで、そこが市川緑道となっています。

この緑道を少し東へ進みます。

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↑広い道路と交差して、何度も見たことのある景色のところに出ました。

府中街道を関戸橋から北に向かって車で走っていくと、突然トンネルのあるところです。

こんなところに山は無いはずなのにと以前は不思議に思っていましたが、今は分かります。

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2017年12月24日 (日)

新府中街道のJR中央線との交差部分の開通効果とオーバーパスの陸橋への疑問

多摩南北道路の一つである府中所沢線(新府中街道)は、関戸橋から甲州街道交差点を越え北に走っていくと、長いこと東八道路へと右折する形状だったものです。

数年前にはその府中市の西原町一丁目交差点から北へ、国分寺3・4・3号線(多喜窪通り)まで開通し、そこでT字路となっていました。

その更に北側のJR中央線と交差する部分も3月には開通したようです。

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↑今回開通区間の最北端となるのは国分寺市日吉町にある、国分寺3・4・6号線(熊野神社通り)との交差点で、距離としては1.1kmの区間となりますが、そこを北から南に向けて見ています。

幅員36mという広い都市計画道路ですが、まだ全通していないためか、交通量は少なめです。

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↑その未開通の北側ですが、用地取得は終わっているようで、工事が始められるところのようです。

この先は西武国分寺線をアンダーパスして、五日市街道まで繋がっていくところまで用地取得は進んでいるようです。

さらにその北側は玉川上水も通っていることもあり、過去には住民投票などいろいろ政治問題化もしていた小平市内になり、青梅街道までの区間は未開通です。

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↑ここには初めてきたので、3月16日には既に交通開放されていたという国分寺3・2・8号線(新府中街道)を南に向かって見に行ってみます。

両側の歩道幅員は10mもあり、左の歩行者と右の自転車の通行帯が区分されています。

しかし、この道に限らず、結構多くの歩行者が自転車通行帯を歩いているので、あまりこの区分が明確に適用されていません。

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300mほど進むと、本線と側道に分かれています。

↑振り返って見てみると、道幅の広さを改めて感じます。

↓南の方に向かっては、本線部分はオーバーパスの橋梁形式となっています。

幅員は高架部は24mで、側道が8.5mずつなので、41mもの道幅となっています。

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ここで不思議に思ったのですが、JR中央線の西国分寺駅から西側の路線は掘割形式だったはずです。

連続立体交差事業を行った際も、この周囲には踏切は無く、そのため立体化工事もあえては行われなかったはずです。

それなら、掘割の線路上に蓋掛けするように真っ直ぐな橋を架けるだけでいいはずなのに、なぜ新府中街道の国分寺陸橋はオーバーパスの橋梁とする必要があったのでしょうか。

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