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2018年4月15日 (日)

平安時代の延喜式神名帳にも載っている多摩八座の一つである阿豆佐味天神社

新青梅街道を西に走って武蔵村山市から瑞穂町に入るとすぐに、阿豆佐味天神社入口という交差点があります。

旧青梅街道でも同様に、阿豆佐味天神社前という交差点があります。

名前や読み方にちょっと興味があったので、その神社に行ってみました。

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↑新青梅街道から北へ向かう旧青梅街道までの道には「阿豆佐味通り」という表示板がありました。

今は普通の道路ですが、以前は参道だったのでしょうか。

道の向こう側には、狭いながらも芝桜がきれいに咲いていました。

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↑旧青梅街道から北は、大きな石碑も多数あり、参道らしくなっています。

左側の大きな社号標には文久三年と記されていますから、江戸時代末の1863年のものです。

また、そこには「延喜式」ともありました。

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延喜式とは延長5年(927年)にまとめられた、「官社」に指定されていた全国の神社一覧である神名帳です。

武蔵国多摩郡では8ヶ所載っており、多摩八座といわれていますが、ここはその一つということです。

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社伝によれば、寛平四年(892年)に桓武平氏の始祖である上総介高望王による創建とされています。

その後も、後北条氏から社領15貫文、徳川幕府から朱印地12石が寄進されており、地域の主要な神社だったようです。

↑明治6年(1873年)郷社に位置付けられており、「郷社」と記されています。

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↑社殿の奥には狭山丘陵の木々が生い茂っています。

階段を上ると拝殿です。

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天正十二年(1584年)、慶長三年(1598年)、享保年間(1716~36)には社殿の修復が行われているようです。

現在の社殿は明治二十七年(1894年)に改修されたものです。

ちょっと見て回ります。

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2018年4月 8日 (日)

多摩市にある稲荷塚古墳は全国的にも珍しい八角墳でおしゃれな名の神社が上にある

桜は散ってしまいましたが、木々が芽吹いてきれいな若葉色が見られる季節となりました。

ただ今回はそれより少し前に、多摩市東寺方、和田周辺に珍しい古墳を見に行った時の話になります。

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↑7世紀の前半頃に造られたとみられる稲荷塚古墳があり、この古墳の形は全国的にも珍しい八角形の八角墳です。

古墳の全長は38mあり、一番外側に幅2mほどの周溝とよばれる空堀がめぐっていました。

その内側に長さ34mの墳丘が二段に築かれていたといいます。

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↑(クリックすると拡大します。)

墳丘一段目は周溝の内側に6mでめぐる低い段で、地上から見て現在は2mの高さで残っている部分は、長さ22mの二段目にあたると説明板に書かれていました。

つまり、一段目は土に埋もれて見えていないということでしょうか。

裏側から見てみます。

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明治時代までは4mほどの高さがあったものの、上の方を削って神社が建てられたことから、半分ほどの高さとなっているそうです。

芝丸山古墳もそうでしたが、当時は考古学など考えられていないので、古墳は単なる小山としか思われていなかったのでしょう。

東京都指定史跡となっています。

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墳丘二段目には横穴式石室がありました。

全長約7.7mで、一番手前が通路である羨道、真ん中が前室、一番奥が玄室という部屋になっていました。

↑稲荷塚古墳の石室は、以前は木造の覆屋で露出公開されていたものの、傷みが激しくなり埋め戻して保護することになり、位置はブロック舗装で示してあります。

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↑古墳の周辺は公園になっていますが、ここは江戸時代の18世紀には黄檗宗の資福院という寺があったそうです。

古墳上の神社は恋路稲荷神社という、おしゃれな名前となっています。

この周辺には他にも古墳があるようです。

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2018年4月 1日 (日)

ヒツジのモニュメントや洋館がありベルモント公園という名の不思議な公園が足立区役所近くにある

足立区役所に何度か行ったことがありますが、北千住駅からの都バスがいつも大変混雑しています。

東武スカイツリーライン梅島駅からも12分ほどでいけるようなので、歩いて行くこととしました。

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↑ルートを知るために地図を見ていると、足立区らしからぬ不思議な名前の公園があったので立ち寄ってみました。

エドモント公園といい、名前の通りに雰囲気も異国情緒があります。

ここはペットも自転車も持ち込み禁止と書かれています。

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↑東京ではソメイヨシノが満開の時期とはいえ、ここは洋風で一本もないのですが、梅島駅から行く南側入り口近くではベニバスモモが咲いています。

知りませんでしたが、ソメイヨシノもベニハスモモも、同じバラ科に属しているそうです。

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↑なぜかヒツジが可愛く並んだモニュメントがあります。

ここは足立区と西オーストラリア州ベルモント市との友好親善のシンボルとして作られた公園だということです。

何だろうと思っていた、ベルモントという名前は都市名だったということです。

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↑オーストラリア原産の木々が多数植えられており、ブラシノキです。

花の形が、コップやビンを洗うブラシに似ていることからこの名前が付いているのですが、開花は5月から6月ということで見られませんでした。

また、ベルモント公園はバラの名所だそうで、北側から東側の外周を中心に45品種79株のバラが植えられています。

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こちらも見頃となるのは5月から6月上旬ということで、残念ながら咲いていません。

トゲばかりが目立ち、痛々しい?イメージなので、咲いている花を探します。

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2018年3月25日 (日)

日本で一番古い公園の一つにあり都内最大級の規模をもつ芝丸山古墳と徳川家光の大イチョウ

東京タワーのすぐ隣にあり、徳川家の菩提寺である増上寺を取り囲むように芝公園はあります。

そんな都心の一等地に古墳があるというので見に行ってきました。

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↑小高い丘となっているところがあるので、これが古墳かと思い様々な角度から見てみました。

前方後円墳であるはずなのに、そうは見えません。

階段を登って行くと、その上に古墳はありました。

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↑「芝丸山古墳」といい、東京都指定史跡となっています。

向かって左が前方部分で、右が後円部分になり、正面がくびれ部分になります。

前方部が狭く低いという形態や占地状態などから5世紀代の築造とみられ、南武蔵の族長の墓だったと考えられています。

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↑右側を見ると、丸い円墳の形をしているのがわかります。

全長106メートル前後(125メートルとも)、後円部径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの都内最大級の規模をもつ前方後円墳です。

前方部は南南西に向いています。

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↑左側を見ると、こちらは言われてみれば方墳かなという感じです。

古墳の一部は削られてしまっており、明治31年に調査された時点で既に後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は無かったそうです。

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↑ここにはお稲荷さんがあり、「円山随身稲荷大明神」といいます。

この円山稲荷は増上寺の裏鬼門に位置し、寺の芝移転時にご本尊を守護するためにお供したことから随身というと書かれていました。

芝丸山遺跡を見るために、まず、後円部の円墳に登ってみます。

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↑広場となっており、円墳の上部は削られています。

ただし、円形であることはわかります。

ここにはちょっと不思議なものがありました。

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2018年3月18日 (日)

北条氏から河越城を奪還するための柏原城なのに何で守りに力を入れているのかの疑問

城郭の縄張りの完成度が高いといわれる狭山市の柏原城の続きです。

守りやすさから舌状台地に築かれた城は、裏側の方は平坦な土地であるはずです。

その北西側からの様子を見てみます。

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↑こうして見る限りは、やはり予想通りに攻めやすそうに感じられます。

しかし、すぐ近くまで行って、同じく北西方向から本郭を見ると、手前には空堀があります。

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その向こうには土塁がありますから、さらに高くなっています。

東側を除く本郭周囲には空堀が巡っていますが、その深さは平均で約3メートルとなっています。

幅はもっとも広い所で7メートル、狭い所で3メートルあり、平均は約4メートルです。

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↑空堀の中に入ってみると、やはり周囲は高く、当時としてはさらに2メートル深かったとのことなので、攻め上がるどころか這い上がるのも難しかったことでしょう。

この北西側からも柏原城というか城山砦跡への入り口があります。

前回も触れたように、ここにはいくつもの名称がありますが、なぜか統一されていないのが不思議です。

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↑左側にあるのが、先程下にも行った空堀で、左奥が本郭です。

さらに、発掘調査によると、この空堀の外側にも深さ3メートルの空堀があったといいます。

ここは現在では道路になっているので面影は残っていませんが、二つの空堀の間には1メートル程の土塁上の高みが残っています。

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ところで、そもそもこの柏原城は、扇谷上杉氏の居城であった河越城が北条氏に落とされたものを、再び奪還するための拠点だったはずです。

攻め込むための城なのだから、そんなに守りの重点を置く必要があったのでしょうか。

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«城山砦、上杉砦、柏原城といろいろな名で呼ばれる山内上杉氏の城郭の完成度の高さ