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2019年12月 1日 (日)

八高線から見える越生総社の春日神社と諸般の事情でたどり着くことが出来なかった赤坂沢

JR八高線の越生駅から少し高崎方面に向かうと、車窓からは右に神社が見えます。

車でその前を通ったので立ち寄りました。

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↑高麗川から先は電化されていないため架線がないので、八高線も写っている写真を撮ろうかとしました。

しかし、この辺りは1時間に1本程度しか走っていないため、列車とのセット写真は撮れませんでした。

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↑越生総社春日神社と刻まれています。

延暦元年(782年)創建とされ、内裏山獅子岩の傍に祭祀されていたものを、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の際に、この地に宮殿を築いて内裏大明神を祀ったといいます。

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↑随神門もあります。

さらに、平将門が当地に内裏を置いたとされ、延喜年中に将門の伯父である平国香が修繕したともいいます。

社伝にしても、有名人がずらりと出てきます。

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↑左は拝殿、右は神楽殿ではなく舞殿と書かれていました。

松山城主上田能登守の再建を経て、寛政10年(1798)に内裏大明神春日大明神を改め、春日神社として越生十六郷総鎮守と定められました。

これにより、越生総社と書かれていたようです。

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↑拝殿の奥にある本殿も趣のあるいい建物です。

ところで、本日の目的地は標高70メートルのここではなく、もっと山奥なのでそちらに向かいます。

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2019年11月24日 (日)

国分寺市都市計画道路の熊野神社通りの未開通部分と江戸時代の土木遺産と熊野神社

国分寺市内でJR中央線の500メートルほど北を、東西に走っている広めの道があります。

国分寺3・4・6号線という都市計画道路で、熊野神社通りと言われています。

国分寺駅周辺から東側や西国分寺駅というか府中街道から西側は完成しています。

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↑その府中街道の東側は拡幅できる用地は確保されていますが、歩行者以外は通り抜け出来なくなっています。

左にあるガストのさらに左の北側にある狭い道が、車にとっての「熊野神社通り」となっています。

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↑道路名になっている熊野神社がどこにあるのか知りませんでしたが、こんな所にありました。

府中街道から100メートルほど東です。

最初は、熊野神社が道路計画線の延長線上にあって、そのため道路が完成しないのかと思いきや、そうではないようです。

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↑計画線はここから少し北東に向いているようで、そこにも用地取得が完了したらしき空き地があります。

まあ左の旗竿は移設しなければいけないかもしれません。

見えている道が現道の狭い熊野神社通りです。

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↑参道の階段を上って振り返ってみると、確かにこの神社は道路計画線内の取得済みの敷地から外れているようです。

神社のさらに東の方を見てきたところ、ほとんど用地取得済みのようです。

西武国分寺線との交差部を立体交差にすることから時間がかかっているようです。

神社のすぐ北には、江戸時代明暦年間の遺構がありました。

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↑国分寺市重要史跡の恋ヶ窪村分水です。

玉川上水から明暦3年(1657年)分水された恋ヶ窪村分水は、昭和40年代までは水田への用水として使われていましたが、その後ほとんど暗渠化されました。

恋ヶ窪村分水は玉川上水の分水の中では比較的大規模で、堀幅は上部で6~9メートル、底部で50センチ、堀深は5メートルほどあります。

横の道路も重要な道だったようです。

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2019年11月17日 (日)

縄文時代の八幡谷戸の高台に立つ奈良橋八幡神社と幼稚園と東大和市を一望できる眺め

鎌倉時代に発達した鎌倉街道上道が東村山市を南北に貫いていますが、その支道が東大和市にあるといいます。

伝鎌倉街道ということで、奈良橋辺りを南北に通っており、市立郷土博物館前の道になります。

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↑八幡通りと名付けられており、その名の通り、八幡神社があります。

地名から奈良橋八幡神社といわれているようです。

道路も多摩湖のある狭山丘陵に向けて登り坂になっていますが、神社に向けての階段も急傾斜です。

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↑階段を登り切ったところで、参道を右に向きを変え、一の鳥居があります。

ここからの参道はかなり広くなっているというか、奥から車で入って来られるようで駐車場と道路が一体となったような構造です。

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↑社務所らしき建物の奥には幼稚園があります。

大和八幡幼稚園といいますが、確かになぜか神社に併設されている幼稚園をよく見かけます。

広い土地があるからなのでしょうか。

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↑手水舎やニノ鳥居の手前に、可愛らしい幼稚園の入り口があるという不思議な光景です。

この駐車場横の林の中には、八幡谷戸遺跡の説明板がありました。

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縄文時代中期の土器や石器、竪穴住居跡が良好な状態で保存されていたとあります。

こうした所によくある復元住居やその穴などの展示物はありませんでした。

先程の道路拡幅工事に先立つ切通し斜面部の発掘調査では大量の遺物が見つかったと書かれていましたから、ちょっと残念です。

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2019年11月10日 (日)

さいたま市にある秋葉神社は関東総社で1250年も前に創建という

秋葉神社といえば、遠州静岡県にある火除けの神という印象があります。

さいたま市内を車で走っていたら、その秋葉神社の関東総社という看板があったので行ってみました。

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JR埼京線指扇駅の北、国道16号線西大宮バイパスの北で、県道57号さいたま鴻巣線からの秋葉通りという道沿いです。

秋葉神社公園という広い公園の奥に駐車場があり、その向こうに境内はあります。

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江戸時代に江戸で火事が多発していたため、秋葉信仰が広まったということなので、この秋葉神社もその頃のものかと思っていました。

ところが、境内にある案内板によると、聖武天皇の世、天平年間創建とありますから、729年から749年の間ということになります。

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↑西側から入ってきましたが、鳥居は社殿の南側にあります。

調べてみると、秋葉神は山岳信仰から発したものが神仏習合により秋葉山大権現として信仰されるようになったといいます。

一に剣難、二に火難、三に水難に神徳があったため、武士の信仰を集めていたものが、江戸時代に火除けの神として人気となったようです。

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↑東側から見た、冬の午後の日差しの中の手水舎越しの神社です。

この秋葉神社は、江戸時代には旗本山ノ内家に守護神として崇敬され、社殿が改築されたといいます。

また、紀州徳川家の御祈願所ともなり、火災・盗難防護、延命長寿、家内安全の霊神として関東一円より多くの人に崇敬尊信されたそうです。

ということは、関東総社となるのは、江戸時代だったのでしょう。

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2019年11月 3日 (日)

所沢市と三芳町に跨がる三富地域の総鎮守である神明社と教科書にもあった人々の名

所沢市に中富と下富が、三芳町に上富という地名があります。

これは江戸時代の上富村、中富村、下富村の名残です。

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↑所沢市中富にある「村社 神明社」です。

元禄9年(1696年)に川越城主であった柳沢吉保がこの辺りを新田開発し、上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開いたといいます。

三富新田といわれています。

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↑手水舎と神楽殿の向こう側は、引き続き多聞院の敷地になります。

開村の際、ここに一寺一社の制に基づき、鎮守の宮として毘沙門社と多聞院を創立したといいます。

宝暦11年(1761年)(入間郡誌では宝暦8年)には境内に神明社を勧請しました。

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↑その神明社の拝殿です。

明治時代になって神仏分離令により、神明社と多聞院に敷地が分けられるようになっています。

明治45年には、享保年間には幕府直轄領として開発された所沢新田等の富岡地域の七社も合祀されたといいます。

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↑本殿は比較的最近に再建されたようでキレイです。

この神社は三富地域、富岡地域の総鎮守ですから、結構な範囲です。

また、この辺りは「川越いも」特に「富の川越イモ」ともいわれるサツマイモの名産地で、境内には「いも神社」もありました。

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«青海南ふ頭公園で見た新しい埠頭や東京国際クルーズターミナルの整備